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吉田兄弟 / 津軽三味線奏者

―――どのような子どもでしたか?
良一郎:北海道登別出身なので、お猿さんのように大自然をかけずり回ってましたね。5歳から始めた三味線は生活の一部で、それ以外は活発に遊ぶ子どもでした。父は「勉強よりも三味線」という人で、1日1回は三味線を触らなきゃいけなかった。父はプロになる夢を息子たちに託したんです。
健一:兄が先に三味線を始めて、最初は兄の送り迎えに付いていっていました。でも、先生のお孫さんが僕と同い年くらいで、稽古場にはおもちゃがいっぱいあったんですよ。それで僕も5歳になると始めていました(笑)。
良一郎:小学校低学年の頃、同級生に三味線を習っていることをバカにされたんですけど、その時「三味線は子どもがやる楽器じゃない」という違和感を感じましたね。確かに稽古場に行くと生徒さんは年配の方ばかりで同年代が全くいないんですよね。
健一:小学校の高学年の頃が羞恥心のピークで、「中学校に入ったらやめよう」と2人して母に言ったんですが、「だったら自分たちでお父さんに言いなさい」と言われました。でも、父の熱意が分かっていたので言い出せずにいたん
ですよ。その頃、流派のトップである佐々木孝師匠に本格的な津軽三味線を習いに行くため、札幌に通うようになったんですね。そこで男の人が弾く津軽三味線のかっこよさや奥の深さに魅せられて、恥ずかしいものとは思わなくなりました。
良一郎:普通の三味線だと、ソーラン節とか盆踊りを譜面通り弾くんですけど、津軽三味線ってほとんど譜面がないんですよ。その難しさについていくのが大変で、それゆえハマっていきました。
健一:札幌に習いに行く日は、毎月第2火曜日と平日だったので、始めのうちは風邪をひいたといって学校を休んで習いに行っていました。ある時、大雪の日に札幌に行ったら、明らかに僕らだとわかる写真が新聞の一面に載ってしまって、「あれっ、昨日風邪で休んでたよね?」みたいなこともありましたね(笑)。

 

 

 

 

 

 

―――プロを意識したのはいつですか?
健一:高校受験のときには既に「三味線で食べていこう」と考えていました。札幌の師匠に出会って津軽三味線の全国大会があるということを知り、出場し始めてからは、大会で賞を取ることが目標でした。上位入賞すると、入賞者だけでCDを出すことができたんですが、それがメジャーへの第一歩でもありましたね。
良一郎:全国大会に出るようになって、初めて同世代の三味線奏者がいることに気付きました。何より驚いたのは、入賞者がほとんど20代だったことです。若いお兄さんたちが、かっこよく演奏してることに衝撃を受けました。
健一:津軽三味線には楽譜がないから、最初は真似から始めて、ほぼアドリブで弾かなきゃいけないんです。全く同じように真似して弾くのは御法度とされているので、同じ津軽じょんがら節でも、僕と兄のとでは全然違います。かっこいいと思うフレーズがあったら、兄弟で取り合いですよ。もともと「門付け」といって、目の見えない方が玄関で演奏してお金をもらうのが津軽三味線のバックグラウンドにあるので、人より目立つようにアドリブ性が強くなったといわれています。

 

―――現在のスタイルに変わったのはいつですか?
健一:兄は高校を卒業してすぐ上京し、僕はまだ高校生だったので地元に残って別々に活動していた時期が3年半くらいあるんですよ。
良一郎:北海道で一番大きな街は札幌なんですが、札幌で津軽三味線で食べていくのは難しいと思ったのと、自分の力を試してみたいという気持ちで上京しました。浅草にある民謡酒場「追分」という店で、民謡ショーの伴奏をしながら修行しました。
健一:僕はその頃、地元でセッション・作曲活動を主にしていました。作曲をするようになって作ったのが『いぶき』というファーストアルバムの「モダン」という曲なんです。それが18歳のとき。津軽三味線では作曲という概念があまりなくて、全国大会で弾く津軽じょんがら節がみなさんが目指すところで、完全オリジナルは珍しかったんですね。民謡を演奏しても難解でわかってもらえないなら、ポップスのようにAメロBメロがあって、口ずさめるフレーズがあってもいいんじゃないかと思っていました。

 

 

―――民謡から今のスタイルになって変わったことは?
健一:一番はお客さんとの距離が近づいたことですね。リクエストが来るということは、そのフレーズをちゃんと覚えてくれているってことなんだと思います。津軽三味線が世界に羽ばたくきっかけにもなると思います。最初の海外での演奏は民謡親善団として行ったシドニーのオペラハウスだったんですが、民謡ばっかりやってたらお客さんがどんどん帰ってしまったんです。それを肌で感じていたので、三味線だけで魅せるにはどうすれば良いのか考えた結果が今のスタイルなんです。
良一郎:デビューをきっかけに若いお客さんが増えたことも嬉しかったですね。「かっこいい」「すごい」「自分もやってみたい」など、僕らが小さい頃に言われていた言葉とは真逆の言葉を掛けてもらえたのが衝撃的でした。津軽三味線って吹雪や荒波のイメージが強いと思うんですけど、僕はそれだけじゃないところも表現しようと思ったんです。

 

 

 

―――曲の作り方は?
健一:僕はもともと打楽器が好きなこともあるので、まずはリズムありきで作ります。だからタイトルが付けられないんですよね。作曲家ではないので、楽譜を書くわけじゃないんです。考えて出てくるようなものでもないので、楽器と遊んでいるときや音楽が流れてきたときに、ふっと浮かんだフレーズを携帯に録音して溜めてます。
良一郎:僕はリズム無視でメロディから。ずっと練習してる間に、自分の手癖の中から自然と出てくるんですよ。悪いメロディは1回出てきたきりで忘れていってしまいますが、しっくりときたメロディは何度も出てきて、それが曲になっていく感じです。

 

 

 

 

 

 

 

―――楽譜がないのにどうやって覚えているんですか?
健一:津軽三味線って、ステージ上で譜面を見ながら弾くのはタブーなんですよ。だから、全部体で覚えています。2人で同じフレーズを演奏することもあるのですが、日が経つとタイミングがズレてしまうこともあります(笑)。だから、どこかで一度確認して合わせるっていうことを繰り返しています。「次、どんなこと弾くんだったっけ?」と思った瞬間には、手が追いつかなくて終了ですからね。考えながら弾くってことは、体に入ってないってことなんです。洋楽器のみなさんって楽譜ありきなので、彼らと一緒にやるときには、「体に入ってなきゃダメだ!」って言って、最終的に楽譜を取り上げちゃいます(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

―――世界のお客さんの反応は?
健一:国によってまちまちですね。フランスでは三味線はクラシックと捉えられるので、曲が完全に終わってから拍手をしないと失礼という考え方もありますし、同じヨーロッパでもスペインはフラメンコがあるので、曲中にお客さんとのキャッチボールが生まれたりします。アメリカはロックとジャズの国で、ライブハウスでの演奏が多いんですよ。そうするとお客さんとの距離が近いので、感情がダイレクトに伝わってきます。どの国にも、良いと思ったら受け入れる土壌があるのは、日本とは違うところですね。
良一郎:三味線という楽器自体が持ってる力みたいなものは感じますね。色々な楽器を見てきましたけど、弦楽器であれだけ打楽器のような音を出せるものってないんですよ。それに、やっぱり世界で勝負できてるのが面白い。小さい頃は海外で津軽三味線が素晴らしいと評価してもらえるなんて考えられなかったですしね。津軽三味線の可能性は、日本を離れれば離れるほど感じますね。
健一:三味線そのものがたくさんの引き出しを持っていて、開ける役目を僕ら
が担っている。「あ、こんな引き出しもあったんだ!」と、開ける作業はすごく楽しいですね。海外で公演すればするほど、日本人にもっと津軽三味線を知ってほしいと思います。僕ら10年以上やってても、「いまだに生の音を聴いたことがない人がこんなにいるのか!」と思うし、「吉田兄弟ってバンドでもやってるんですよね?」とか言われる(笑)。僕らが足を運んで聴いてもらう活動を辞められないのは、「観に来れないのなら行こう」という理由なんです。ホールが大きくても小さくてもやってることは変わらないし、日本だろうと海外だろうと変わらないですね。

 

 

 

―――最近は若手の育成に力を入れているそうですね。
健一:奏者は増えたんですけど、演奏する場所が増えてない、浅く広くなってしまったのが実情です。流派を越えた若い三味線奏者たちが日の目を浴びる場を与えたいという思いがあって、今は「疾風(はやて)」という津軽三味線集団のプロデュースをしています。プロデューサーという立場でやっていますけど、彼らから学ぶことも沢山ありますね。
良一郎:2002年から、学校教育に和楽器が導入されたんですよ。僕らのデビューは1999年だったんですが、実はそのお手本的な意味合いもあったんです。年配奏者よりも、年齢が近い僕たちがデビューしたほうが身近に感じてもらえるだろうという意図があったと思います。だから、デビュー当時は学校公演が多かったですね。僕らが子どもの頃って民謡ブームだったので日曜の朝8時とかに番組がやっていて、民謡ってこういうものというイメージがあるんですけど、今の子たちは目にする機会がなくてイメージすらないから、僕らの演奏が始めて関わる和楽器ということになります。
健一:今の子って津軽三味線を新鮮に受け止めてくれるんですよ。ある意味、外人と出会ったような感じでね(笑)。
良一郎:「和楽器ってかっこいい!」と若い人たちに思ってもらいたくて、僕は津軽三味線と尺八、太鼓、箏で「WASABI」というユニットを組んで、学校公演をするのがライフワークになってます。和の良いところを聴かせる、侘び寂びのさびで「WASABI」なんです。オリジナル曲を中心にやって、体験コーナーを設けて触れてもらったりもしています。

 

―――「伝える」とは?
健一:海外では間違った日本の情報が、「これが日本である」とされていたりしますよね。それは伝える立場の僕らが一番やっちゃいけないことです。どこまでが伝統で、どこまでが継承すべきもので、どこからがオリジナルかって、線の引き方が全然違うわけですよ。吉田兄弟を伝えたいんじゃなくて、和の神髄を伝えられるように僕らは伝えなきゃいけない。
良一郎:伝統と革新。伝統の部分はしっかり守りながら、オリジナルのものにはどんどんチャレンジしていく。このラインをしっかり引いて伝えていかなきゃ、おかしくなってしまう。
健一:伝統は古いものじゃなくて、その時代ごとに創っていくものなんですよね。その時代時代の流行りものですから。僕らが今やっていることが、50年後100年後に伝統とされる可能性も大いにあるから、継承すべきものを大事にしながら、伝統を創る。これが伝えることだと思います。
良一郎:でも実は伝統がないと、革新は創れないんですよね。今の子たちが、僕らの革新の部分だけ「いいな」と思って、民謡のベースがない三味線奏者になることが、一番やっちゃいけないこと。でもそういう奏者が多いのも事実なんです。よく「テレビでこの曲を三味線でやってもらえませんかね」と言われるんですよ。弾けるは弾けるんですけど、三味線の要素がたくさん入ってないと、ただメロディを追うだけでダサくなる。
健一:僕ら吉田兄弟がやる理由+三味線である必然性がない限りは、絶対にやらないですね。三味線で民謡をやらないで、ギターっぽいことをやるとかは、三味線である必然性がないわけなんですよ。伝え方を間違うといけないっていうのはそういうことで、曲が良いとか悪いとか以前の問題として、僕らがやる意義をいつも考えています。

 

―――いま「伝えたいこと」を色紙に書いて下さい。
良一郎:「チャレンジ」です。三味線を始めるというチャレンジ、オリジナル曲を作るということもひとつのチャレンジ。学校公演を改めてやってみて、子どもたちに伝えていきたいと思うことは、チャレンジです。チャレンジしないと何も始まらないわけで、怖がらずにどんどんチャレンジしてほしいし、自分もどんどんチャレンジしていきたいので。
健一:「伝統は創るもの」。創ることが伝えることだと思っているので、50年後100年後、僕らの名前と曲が残っていくことを目指して、伝える者として忘れちゃいけないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インタビュー終了後、撮影のために演奏してくださった吉田兄弟さん。
その音色の幅に驚きつつ、これが「伝統と革新なのか」と改めて納得させられました。

吉田兄弟

吉田兄弟 (よしだきょうだい) 【津軽三味線奏者】

吉田良一郎(兄)、吉田健一(弟)
北海道登別市出身。ともに5歳より三味線を習い始め、1990年より津軽三味線の初代・佐々木孝に師事。津軽三味線全国大会などで頭角を現し、1999年にアルバム『いぶき』でメジャーデビュー。民謡界では異例となる10万枚を超すヒットを達成する。 伴奏楽器の三味線とは異なる楽器としての津軽三味線独特の魅力を強調し、オリジナル曲を多数作曲。これまで三味線に触れたことのない若い層にリスナーを広げ、高い人気を誇る。日本国内はもとより、アジアやアメリカ、ヨーロッパなどでも広く活動し、日本の伝統芸能の枠を超えてワールドワイドに活躍している。 最近では、兄:良一郎は、『WASABI』というユニットで、子どもたちに日本の伝統楽器の魅力を伝えるための学校公演を展開。弟:健一は、『疾風』という若手奏者を集めたユニットをプロデュースし、若手育成に励むなど、それぞれの活動も展開している。

今年の公演の詳細は、こちらまで。
吉田兄弟公式オフィシャルサイト
http://www.yoshida-brothers.jp

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