
―――どんな子どもでしたか?
典型的な末っ子三男坊でしたね。家で遊ぶよりも、沖縄の森、川、海を走り回り泥だらけになって遊んでいました。アニキたちにパシリに使われたりするんだけど、それも大好きみたいな(笑)。兄弟3人で探検に行ったりするような、ケンカするけど仲が良い兄弟でした。
アナウンサーの父とアメリカ人の母は、敬虔なクリスチャンで厳しく教育熱心でした。算数や国語のドリルのノルマがあって、それをこなさないと遊びに出られないんですよ。やんちゃで勉強は好きじゃなかったけど、褒められるのは好きだから、褒められたくて頑張ってました。だから、成績は飛び抜けて良いわけじゃなかったけど、悪くはなかったですね。
あとは、ひとつのことに固執するような子でした。メンコでもビー玉でも技を極めるためなら何時間でも同じ練習をしてましたね。技を会得して人に見せたいんですよね。それは大人になった今もあまり変わってなくて、舞台の練習中に何かひとつ技術を会得したら「明日初日来ないかな。お客さんに見せたいな」と思っちゃう(笑)。
―――幼少期はずっと沖縄だったのですか?
両親の教育方針で、川平家の子どもは8歳になると、母のふるさとのカンザス州ヘストンという小さな街にある伯父の農場へ1年間単身で留学に行かされるんです。
初めて行ったアメリカはカルチャーショックだらけでしたね。忘れられないのは、ロサンゼルス空港に降下するときのこと。窓の外に青い丸が点々と見えるんですけど、「なんだろう?」と思ったら、プールなわけ。「この国、家にプールがある!」とびっくりしましたね。学校に行けば芝のグラウンドに観客席があるスタジアム。それまでは沖縄で父親のタンクトップ着て裸足で走り回ってた子どもですから、「カフェテリア!?」「ローストビーフ!?」「アイスクリームのベンディングマシーン!?」こんな世界があるのかと、目ん玉飛び出すくらいびっくりしましたね……。僕は草履を持って行ったのに、周りの友だちはコンバースを履いてたりするし、女の子はブロンドでかわいくて化粧をしてる。ひるみながらも「おとぎの国に来たんじゃないか」とワクワクしました。
ヘストンは南米でサッカーを覚えて帰ってきた宣教師が多い街で、サッカーがものすごく盛んなんですよ。少年サッカー団に入って、すぐサッカーの虜になりましたね。沖縄の自宅から首里の小学校までの急な坂道で足腰を鍛えられた僕は、足が速かったのでフォワードに抜擢されました。「俺がキメる!」「俺が目立つんだ!」「今、俺がヒーロー!」という典型的なフォワード気質だったのも合ってたんでしょうね。初めてゴールを決めたときのあのカタルシス。
完全にサッカーに魅了されてしまいましたね。
―――当時のハーフって?
デメリットのほうが多かった。僕は1962年生まれで、1972年が沖縄返還の年。僕の幼少期の沖縄は、基地問題や米兵問題でアメリカに対する印象があまり良くなかった時期なんですよね。実はうちの父は、ミリタリー関係者ではない白人女性と結婚した「うちなんちゅ(沖縄人)」第一号なんです。父がアメリカ留学したときに母と出会って結婚したんです。
軍の関係者じゃないから、当然のように米軍基地の外に住むんですが、母や僕ら子どもに対して心ない言葉を掛けられることもありました。川平家を知ってる近所の人たちはとても良くしてくれたんですけどね。三兄弟のなかでは僕が最もアメリカ人っぽい容姿だったし、コンプレックスがなかったといえば嘘になります。ただ、スポーツができて腕っ節が強かったから、学校でいじめられることはなかったし、母が強い人で「プライドと自信をしっかり持って。何も悪いことなんてしてないんだから」「そんなことはチャンネルオフ。受け止めるだけ時間の無駄」と教えてくれたからポジティブでいられましたね。
アメリカでは容姿を気にせず過ごすことができたんですが、帰国のタイミングで父が東京に転勤になったので、「また東京でも容姿でイヤな思いをするんだろうな」と思ってたんですけど、全然違っていたので驚きました。「お前のお母さんアメリカ人なんだって? 英語喋れるの? すごい!」と、ハーフ=かっこいいになったから、最初の何年かは戸惑いましたね。

―――サッカー選手でなく役者を志したのはなぜ?
中学校ではスポーツ系の部活のほかに文化系あるいは理科系の課外活動をしなきゃいけなくて、スポーツ系は当然サッカー部で、文化系は英語劇部を選んだんですよ。今でもお付き合いのある恩師で顧問の榑松先生は無類のミュージカル好きで、中1の僕に「ジェイ、ウエスト・サイド・ストーリーをやろう!」と言い、ちょうど上映中だった映画を観て、「なんて心躍る世界なんだろう」と衝撃を受けました。人が集まるとカチャーシーを踊り出す沖縄人の血が刺激されましたね。文化祭ではベイビー・ジョンの役をもらって、全校生徒の前でジェットのテーマを歌いました。もともと目立ちたがり屋ですから、その気持ちよさを知ってしまったら虜になっちゃいましたね(笑)。
中学から高校までエスカレーター式の学校だったので、榑松先生と一緒に色々なことをやりましたね。ダンスパフォーマンスをやったり、エチュードだったり……。演劇に恵まれた環境は、今の僕の土台となりました。
高校のときには読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)のユースチームに所属して、サッカー選手を目指してたんですけど、まだJリーグがない時代だったのでアメリカの大学にサッカー留学しながらスカウトを待ったけど、監督と折り合いが悪くてね……。いわゆる戦力外通告ですよ。初めての挫折に打ちのめされました。
帰国後は上智大学に編入し、また演劇をやりたくなって、大学3年の終わりごろ英語版ミュージカル『フェイム』に出演しました。カーテンコールのときに「自分は役者になるしかない」という内なる声が細胞レベルに響いてしまったんです。敬虔なクリスチャンの母は「ショービジネスなんてダーティーな世界」と思ってましたから、仕事を理解をしてくれるまでの2~3年はだいぶ泣かせてしまいましたね。
―――スポーツキャスターとして再びサッカーへ
リーグが開幕する1993年、テレビ朝日の『ニュースステーション』のサッカーキャスターに抜擢してもらったんですけど、最初はイヤでね。「自分は役者だから、舞台で成功したいのであって、サッカーキャスターになりたいわけじゃない」と言っても、事務所で社長はじめスタッフに囲まれて説得されたんです。最終的には長男のジョンに「まずは顔と名前を覚えてもらうことが大切。そしたらやりたいことがしやすくなるよ」って言われて、3ヶ月限定でやろうと始めたら……楽しくて(笑)。のびのびやらせてくれて、「なんだ、こんなにハジけていいんだ」って思えたから、スタッフには恵まれましたね。キャスターという仕事を極めたいという気持ちより、「愛するサッカーというスポーツを一人でも多くの人に知ってもらいたい!」という気持ちが強かったですね。Jリーグが盛り上がって僕の知名度も上がったんですけど、「あ、サッカーの人だ」と言われるようになって、「自分はキャスターじゃなくて舞台俳優なんだけどな」と内心複雑でした。でも、サッカーファンの方が「川平さんの舞台、観に行きますよ!」と言ってくれたり、舞台のお客さんが「川平さんの影響でサッカーを見始めたんですけど、サッカーって面白いですね!」と言ってくれるようになって、
「思いが成就したな」って思えるようになりましたね。
―――俳優業とキャスター業、スタンスの違いは?
ないですね。舞台に立つ前の僕も、試合前にスタジオにいる僕も「I’m going to enjoy. Let’s enjoy」って思ってますからね。
バイオリズムでコンディションが悪いときでも、収録はあるし舞台もある。僕には明るくてポジティブでハイテンションというイメージがあるけど、もちろんキツいときもあります。若いころはパーフェクトな自分じゃないと許せなかったけど、そもそもパーフェクトなんてないんですよ。「パーフェクトでしょ」って押し付けても人の心は動かないしね。
もちろんパーフェクトに対する感動はあるけど、芝居やダンスを観ていて惹き付けられるのは、下手くそでも「楽しい」「嬉しい」を全身から放っている人。だから、だんだん「パーフェクトさよりも、生きているエネルギーをそのまま丁寧に出そう」って思うようになりました。僕が尊敬する俳優や表現者たちは、本当に楽しそうに表現をするから、僕も肩の力を抜いて取り組んでいきたいですね。
―――川平さんにとって「楽しく表現する」とは?
今年で4回目になるんですけど、「J’s BOX」という、ワンマンショーをやってるんですよ。「J’s BOX」は生きることへの執着心に溢れる「川平慈英」というおもちゃ箱をひっくり返したようなカラフルなステージです。「汗、何ガロン出してるんだ」ってくらい頑張っちゃってる(笑)。前半は「バカだね~」と笑ってくれるような内容だし、お客さんを舞台に上げて踊らせたり、メドレーで早替えをやったり、ピアノも挑戦したり、最後はホロッとくるような人情劇などもあります。
僕は美空ひばりさんのように静のエネルギーで泣かせることはできないから、汗かいてハイテンションでやって人の心を動かすタイプ。でも49歳目前になって、やっと少しだけ静のエネルギーを表現することができるようになってきた気がします。表現者としての道のりはまだまだ遠く、死ぬまで続くんでしょうね。演技には正解がないですから。
ヴォードヴィリアンに憧れてるんです。歌いながらタップを踊ったり、楽器を弾いたり、手品をしながらコメディを演じたりする総合芸術家。日本のショービジネスの1ページに名前を残したいですね。
―――川平さんにとって「伝える」とは?
父の代から受け継がれている座右の銘が「和顔愛語」。平和な表情から愛溢れる言葉が出る人間になりたいです。死んだときに「こんな人だったね」って言われるのが夢だし、そういう表現者になりたいですね。
キザですけど、愛を届けたい。舞台って愛だと思うんです。台本、役、曲、演出家、共演者、スタッフ、関係者、そして来て下さったお客様。全てに対して愛がないと良いものはできないんですよね。坂東玉三郎さんも「ジェイ、愛に満ちてないと絶対に良い表現はできないよ」って仰ってくださいますし、観て下さった方の「楽しい」「優しい」という気持ちに包まれて、愛を共有するから悲しいシーンが生きてくる。お客さんに僕らは生かされてるんです。
こんな時代だからこそ「愛」という言葉の大切さを感じるし、そろそろ僕らは大声で愛を語ってもいいんじゃないかな。
テレビではハイテンションなイメージを見せる川平さんですが、
始終和やかにインタビューに応じて下さいました。

川平慈英 (かびら・じえい) 【俳優】
1962年生まれ。沖縄県那覇市出身。沖縄本渡復帰に伴う父親の転勤で家族とともに東京へ転居。玉川学園高等部時代、読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)のユースチームに在籍。中高生時代はサッカー部、クリエイティブムーブメント部、そして英語劇部に入部。テキサス州立大にサッカー留学した後、上智大学へ編入。在学中に英語版ミュージカル『フェイム』に出演。1986年にはミュージカル『MONKEY』でプロデビューを果たす。近年の主な舞台出演に『GOLF THE MUSICAL』(06年)、『ハレルヤ』(07年)、『五右衛門ロック』(08年)、『TALK LIKE SINGING』(09年)などがある。さらに自身が監修・出演するライブショー『J’s Box~川平慈英の箱~』ほか、映画やドラマへも出演している。また自らのサッカー経験を生かしたユニークな解説とサッカーへの愛情にあふれた語り口で人気を集め、サッカーナビゲーターとしても活躍している。
川平慈英オフィシャルブログ「Yabadaba-Dooo!」
<公演スケジュール>
■公演概要:
「毎年J’s BOX楽しみにしています。慈英さんとこんなに近い距離で会えて嬉しかったです!」
(J’s BOX vol.3「俺のpitchに来ないかい?」アンケートより)
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