
―――どんな子どもでしたか?
まず自分の生まれた環境が、今思うと、ちょっと普通ではないというか……。僕は、銀座の劇場の前にある今でもある喫茶店の息子なんですが、母が舞台への憧れが強かったので、子供のときから舞台を観ていました。周りにも大人ばかりしかいなかったんですが、僕はその大人たちの会話をいつも楽しんで聞いていて、そのせいかテレビよりも、周りの花柳界とか芸者さんとか、舞台とか、そんな話ばっかり頭に先に入っていた、マセた子供でした。
そういう環境だったこともあってか、その後ずっと、人と興味あるものが違ってしまったんです。日舞や茶道、中学のときは仏像鑑賞だったりして、人と交流ができなくなってきた。その結果、ちょっと生きる自信を失って、高校生になると引きこもってしまっていました。
1年ぐらい学校に行かなかったりしましたね。だから、どんな子供だったか? と言われると、周りからは変わった子とか、不思議な子に映ってたんじゃないかな(笑)。とにかく子供時代は、世間や社会と自分ってところで、ちょっとギクシャクしていたタイプだと思います。
―――子供の頃から「僕はなぜ生きてるんだろう」とか考えるような、感受性の強いお子さんだったようですね。
それは母の姿を見ていたからだと思いますね。母は、僕が小学生の頃から肝硬変を患っていて、何度も入退院を繰り返したり、働き過ぎもあり死の宣告を受けたりしてたんです。結果的に、母は僕が21歳になるまでは頑張って生きたんですけどね。そんなこともあって、「僕はなんで生きてるんだ」「どうして僕は生まれたんだ」みたいなことをいつも考えていました。考えざるを得なかった、とも言えるけど、やっぱり考えることで自分を少しずつ築いていたんでしょうね。その延長で仏像鑑賞まで行くワケですから(苦笑)。
もちろん、生きる意味とか考えても答えなんか見つからない、とも思うんですが、一方で僕の中には、自分が今生きていることを常に実感して楽しみたい、という思いがあるんです。なぜなら、母は闘病中もしっかり生きていたから。一見、病気は悲しいけど、元気になったときの母親は目に映るいろんなものに感動したり、「今生きてるのよ、すごいわねー」みたいなことを常に言っていた人だったので。そういった母の姿勢を見ていたせいか、僕はいまだに演出家という仕事を日々、新鮮な気持ちでやれているんです。
―――演出家という仕事に興味を持たれたのは、いつ頃なんですか?
引きこもっていたときに、僕はレコードを聴きまくっていました。窓がない4畳半の部屋で、クラシック音楽から、ミュージカル、オペラ、井上陽水さんなんかの曲を聴いては、めくるめくイメージを広げながら、ひとりで興奮したり泣いたりしていました。ホントに毎日毎日、死ぬことを考えていましたからね。陽水さんの『氷の世界』の「都会では自殺する~」という歌詞にも影響されたかな(苦笑)。でも、その時期に、音楽と、自分の中で広がっていく視覚的なイメージの世界が本当に面白く感じて、それを人に伝えたいなと思ったんです。で、もしかしたら、そういうことができるのが映画監督とか演出家という仕事なのかなと思い始めたんですね。だから、引きこもりは僕にとっては大切なことだったんです。
―――映画監督ではなく、演出家を志したのはなぜだったんですか?
幼い頃から毎日、舞台を観ていたからでしょうね。自分の中で道が見えやすかったんだと思います。
そして、強く決意したのは母が死んだ、僕が21歳のときです。そのとき僕は出演者として舞台に出ていたんですけど、舞台初日の朝に、僕の下宿で脳溢血で倒れて、その後、病院で息を引き取ったんです。母は舞台が大好きだったし、その思いが僕にバトンを託したのかなと思えて…。この瞬間に、「演劇の道でいこう、演出家になろう」って定まりました。
ただ、そう決意はしたものの、なかなか演出家への道が開けなくて20代は大変でした(笑)。企画を持ちこんでは断られ続けていたし、精神的にはアップダウンの激しいローラーコースターみたいな日々でした。でも、「もういいや」って思うことだけはなかった。まだ20代だったし、ホントにやり尽くしてダメだったらあきらめもつくけど、「やってない」って思いが自分の中にあったので。
―――演出家になる前は、ダンサーもやられてたんですよね。
ダンサーをやっていたのは、出演者の気持ちを知るためには、まず自分がダンサー経験を積んでおいたほうがいいと考えたからなんです。まずは、舞台に立つダンサーの中でダンスリーダーになる。例えば、ミュージカルなら15曲ぐらいダンスナンバーがあるとすると、運がいいとその中の1曲だけ振り付けをさせてもらえる。それで必死に演出家に掛け合って、それがやがて半分になり、全部になり……。そんなふうに段階を踏んでいきました。
でも、その頃、ニューヨーク・ブロードウェイでは「演出家」で、振り付けも演出も両方できるっていう人が何人もいたんですね。僕はそこに目標を定めていたので、まず自分がダンサーとして踊れる、そして、全体を構成できるっていう形に持っていきたかった。ただ、僕がダンサーでしかなかったときは、いくら「演出家になりたい」と言っても、ほとんどの方に「オマエはダンサーだろ。演出家とダンサーは根本的に違う」と散々言われましたね。
―――そんな中で、亜門さんは20代で演出家になるって目標を定めて、その目標をギリギリの29歳で達成されたんですよね。
でも、最初の舞台は150人ぐらいしか入らない小さな劇場でしたし、何ひとついい条件で始まったワケではないですよ。確かに「29歳までには」って決めていたし、絶対20代のうちに何かひとつ手がけたかったので、27歳ぐらいから焦りはすごくありました。結果的に、29歳で初めて『アイ・ガット・マーマン』って舞台を手がけたワケですけど、それをやるキッカケになった、親友の女性の一言があるんです。その頃の僕は相変わらず、企画を持ち込んでもハネられてばかりだったので、演出家には延々なれないんじゃないかと思って、周りに対して「どうせ日本の演劇界は……」とか、「どうせミュージカル界は……」とか文句ばかり言ってたんです。親友の彼女にも電話でそんなことを話していたんですが、それまで黙って聞いていた彼女が、最後に「あなた何言ってんのよ!」って怒り出して、「なんにも自分からつくってないのに、なんで人のこと非難してんの? 自分がやりたいんだったら、まずやればいいじゃない? それを見なきゃ、周りだってアナタが何をしたいかわからないわよ!」って言ったんです。で、僕も「わかったよ。つくりゃいいんだろ、つくりゃ!」って電話を切って(笑)。カーッとしたけど、言い返せなかった。「確かにつくってない。結局、僕は口だけだ」って思ったんですね。そこから自分が本気で動き出したら、いろいろなものが本当に動き出したんです。
―――それからは一気に軌道に乗った感じですか?
いやいや、「『アイ・ガット・マーマン』をやって、それから亜門さんは一気にバーンと」って言われるけど、そんなことは全然なかったですよ。最初は、出演者たちにお金が払えないから、自分でアルバイトしてお金を貯めたり、オヤジからお金を借りたりのスタートでしたから。チラシを作ってくれる人もいないんで、自分で絵を描いてデザインもしたし、稽古場も、そこらへんの公共の区役所みたいなところの空いてる部屋を借りてやってましたから。初の演出ができたことはよかったけど、将来、演出家になれるかどうか保証されてない状態だったから、すごい不安だらけでした。こんなにお金出してどうしようとかね。
ただ、さっきのダンサー時代の話じゃないですけど、今の僕は壁というか、「これはムリだよ」って言われることは、なぜか喜びに変わる癖がついちゃいましたね(笑)。なぜなら、与えられた壁は乗り越えるためにあって、いつか超えられるから。だって、僕は絶対、演出家になれないって思ってたのに、なれたワケじゃないですか。
普通はレールがないと不安だとか、先が見えないことがコワいって言うけど、レールがないってことは、自分で自分のレールが引ける。人のレールでなくて済む。素晴らしいと思いませんか。
―――今後の抱負は?
演出家としては、こないだもニューヨークで三島由紀夫の『金閣寺』をやったりしましたけど、日本文学とか、日本の文化の素晴らしさみたいなことを発信していきたいなと思ってます。今の僕らは東日本大震災のことも含めて、世界でも、日本の歴史の中でも、すごい大切な瞬間に生きてると思うんですね。例えば、みなさんが生きているということに関して、今までは「僕はどうして生きてるんでしょう?」とか言っても「おい、ちょっと宮本、大丈夫かよ。オマエ真面目過ぎないか?」とか言われちゃう時代だったと思うんだけど、今は生きてるってことを真っ向から考えられる。生きてるときに何ができるんだろう? とか、援助も含めて、みんなで考える、今までにない時期に入ってきたと思うんです。それを苦痛と思うか、あー、これでまたいろんなことを新たに考えられる、って思うかは人によって違うかもしれないですけど、僕は後者なんです。だから、今はいろんな発想や考え方が大きく転換できる時期に入ったんじゃないかと思います。こんなにすごい時期にいるからこそ、いろいろ考え新たな発想を創造できたらと思います。
―――亜門さんにとって、「伝える」とは?
「ぺんてる」さんのクレヨンじゃないけど、クレヨンって、色がたくさんあるじゃないですか。僕はその色の多彩さが子供の頃から嬉しくてしょうがなくて、大人になった今でも同じです。日本にいて、いつも思うのは世界に行くと、もっとカラフルなんですよ。人種の肌の色も、言葉も、考え方もそう。海外に行くと、それが楽しくてしょうがない。これまで日本で生きてきて、普通こうして人は生きてるんだよなと思っていた常識も、他の国へ行くとまったく違う。そうすると、自分はどの色を持っていて、こんなに違う色を持ってるんだ、っていうことを伝えたくて仕方ないんですね。例えば、日本の中にいて、「自分はこの色だよ」「生きるってこの色しかないよ」っていうなら、「ちょっと待って。こんな色もあるんだよ! こんな発想や世界もあるんだよ!」ってことをお客さんに伝えたいっていうのが、きっと僕が舞台をやってる理由じゃないかなと思います。

―――いま「伝えたいこと」を色紙に書いてください。
『循環』です。うちのおふくろが死んだときも、僕、バトンタッチされたでしょ。人は、全部死んで、全部生まれて、血も毎回変わって、細胞も生きて死んでを繰り返している。ずっと循環してるんですよね。だから、これからもいろんなことが起きるかもしれないし、いろんな考え方が変わるかもしれないけど、それを恐れないで、変わるってことは面白いんだと。そりゃもちろん辛いことは絶対あると思うけど、循環してくんだから、自分も体も。それだったら、死ぬこともそうだし、生きることもそうだし、すべてにおいて、今その瞬間をどう楽しむか? って考えたほうが僕はいいなって思っています。
経済もそうだけど、どんどん厳しくなるじゃないですか。みんな『前はああだった』って言うけど、人類の歴史を見てももうみんな変わってきてるんだから、そこで自分が今どうやって生きるか、楽しむかってことを考えるほうが次の明るい未来があると思う。僕はそうして生きていきたいですね。
お話を伺ったのは、2010年の4月から宮本さんが芸術監督をつとめる神奈川芸術劇場(KAAT)の一室。本当は前編・後編に分けたかったぐらい、時間いっぱいまで貴重なお話を聞かせてくださいました!

宮本亜門 (みやもと・あもん) 【演出家】
1958年東京都生まれ。出演者、振付師を経て、2年間ロンドン、ニューヨークに留学。帰国後の1987年にオリジナルミュージカル「アイ・ガット・マーマン」で演出家としてデビュー。翌88年に、同作品で「昭和63年度文化庁芸術祭賞」を受賞。2004年には、ニューヨークのオンブロードウェイにて”太平洋序曲”を東洋人初の演出家として手がけ、05年、同作はトニー賞の4部門でノミネートされる。また、同年に上演したミュージカル「Into The Woods」の演出では、朝日舞台芸術賞の秋元松代賞を受賞。07年、米・サンタフェオペラにてタン・ドゥン作曲の現代オペラ「TEA: A Mirror of Soul」(アメリカン・プレミア)を演出。2011年には、1月にオープンしたKAAT<神奈川芸術劇場>の芸術監督に就任。そのこけら落としとして、三島由紀夫原作の「金閣寺」(主演:森田剛)を舞台化し、今年7月のNYリンカーン・フェスティバルに正式招へいされ公演を成功させる。ミュージカルのみならず、ストレートプレイ、オペラ等、現在最も注目される演出家として、活動の場を国内外へ広げている。
■宮本亜門 近日のスケジュール
*ミュージカル「アイ・ガット・マーマン」
公演日程 2012年1月3日(火)〜19日(木)シアタークリエ
http://www.tohostage.com/merman/index.html
*「金閣寺」日本凱旋公演
公演日程 2012年1月27日(金)~2月12日(日) 赤坂ACTシアター
http://www.parco-play.com/web/page/information/kinkakuji2012/
*「サロメ」
公演日程 2012年5月31日(木)〜17日(日)新国立劇場
http://www.nntt.jac.go.jp/play/20000442_2_play.html