ぺんてるの山田です

字が下手な人間が文具メーカーに入ったら。#2変わったこと、変わらなかったこと編

字が下手な人間が文具メーカーに入ったら。#2変わったこと、変わらなかったこと編

こんにちは、ぺんてるの山田です。

前回、字が下手な人間が文具メーカーに入ってどうなったかを語ろうと思っていたら、本題に入る前に話が長くなりすぎて、前後編に分ける運びとなりました。
その結果、前編はただただ字が下手と言うに終始したものとなってしまい、文具語りを期待して訪れたみなさまは、さぞ肩透かしであったことでしょう。

そもそも、文具メーカー社員が字の下手さを語ったところで、なんら宣伝効果があるとは思えません。むしろ逆効果です。
今回はこれを取り返すべく、引き続き自分の手書き文字は伏せたまま、製品情報をさりげなくかつ大胆に紛れ込ませていきたいと思いますので、ご了承ください。

 

そんなわけで、後編では、字が下手な人間がちょっと変わったり、変わらなかったりします。

01なぜ、さんざん避けてきた字の練習に取り組むことになったのか

ちょっと字を練習してみようか、と思い立つきっかけは、人によってさまざまだ。
新年や新学期といった節目に、高いモチベーションで決意することもあろう。のし袋を書いて、その出来にショックを受けたとか、人前で板書をする立場になったとか、直筆の詫び状をしたためなくてはならなくなったとかの、やむをえない事情に迫られてのこともあろう。また、SNSで美文字を見て憧れたり、和風作品にハマって筆文字を書けるようになりたいと志したりすることもあるかもしれない。
何らかのきっかけで、上手くなりたい、と強く欲し、そのための行動を起こす。それがスタンダードだと思われる。

美しい手紙を書きたいというのも、きっかけのひとつとなろう(画像はイメージです)

私の場合は、そうではなかった。そういったことで、字の重要性を認識するような人間であったら、とっくに改善に取り組んでいただろう。むしろ、必要に迫られるほどに、逃げ道を考えてなんとか避けることに全力を傾けるタイプだ。
上手くなりたいと心の底で思いながら、何も行動することなく、これまで生きてきた。学校でも、会社でも、そのたびに、ほら、字が下手でも何の問題もないではないかと、確信を深めながら。

だから、私のきっかけはほんのささいなことで、単に仕事の関係で、文字の練習帳を手に入れたからだった。文具メーカーに籍を置いていると、文字やイラストやクラフトといった領域に接する機会が多く、関連する品々が手に入ることがある。そのうちのひとつだった。

上手くなりたいからテキストを買うのではなく、テキストを手に入れたから練習する、という流れである。意志ありきではなく、なんとも即物的であると言わざるをえないが、そもそも意志が先に立たない人間にとって、きっかけとなるのはこんなことくらいしかない。

字を練習するテキストの存在は以前から知っていて、書店の一角に平積みになっていることから、人気があることもわかっていたが、見かけても自分から手に取ることはなかった。社会的な圧力に屈するようで、反発があったし、きっと続かずに挫折するという確信があった。

字を上手く書くコツのようなことであれば、これまでにも聞きかじったことがある。線と線の間を均等にする、とか、はねた後にその延長線上に着地するとよい、とか、漢字に対してひらがなは小さめに書く、とか。しかし、そんなコツを断片的に知ったところで、所詮は小手先のテクニックにすぎず、字が上手くなる効果を感じることはできなかった。
そんな経験があるので、字の書き方を教わるということに対して、やや不信感があったのは事実である。

だいたい、絵の描き方のような指南書を読んで、それが身についたためしがない。個別のテクニックの解説はあっても、肝心のところは「良い感じに」「適当に」としか記されていなかったりする。結局はセンスなのだ。きっと、上手な人が苦もなく上手な手本を書いて、「ね、簡単でしょ?」というようなものだろうと思っていた。

こんなことで、本当に字が変わるのか。
しかしまあ、せっかくここに教本があるのだ。別に、個人的に欲したのではなく、仕事の一環であるから、信念を曲げることにはならない。いわば市場調査だ。自社製品と近接する領域について、知っておいて損はない。
挫折するとしても、試しにやってみて、もし効果があれば儲けものではないか。そして、練習しても変わらなかったら、もはや矯正不可能ということだ。やはり字は生まれもってものだと確信できて、いさぎよく諦めもつく。どちらに転んでも、収穫はあるといえる。

きっかけは、そんな軽い気持ちだった。妙なプライドが邪魔をしていたが、なんだかんだいって、興味があったのである。

そうして私は、練習帳のページを開いた。ボールペン片手に。

02ひらがなってこう書くんだ。ボールペン片手の学び直し

その練習帳は初心者向けで、ひらがなにターゲットを絞ったものだった。五十音の一つひとつについて、丁寧にポイントが解説されている。

正直いって、ひらがなの形をこれほどじっくりと見直してみたことはなかった。手本のひらがなは、私の思うひらがなとは、まるで形が違っていた。短いと思っていた部分が長く、大きいと思っていた部分が小さく、近いと思っていた部分が遠かった。逆もまた然りである。

手本の入ったマス目は十字の破線で4分割されていて、どの辺りから書き始めて、どの地点で曲がれば良いのか、感覚ではなく座標で理解することができた。美術の授業で、デッサンスケールを自作して写生をしたときのことを思い出す。先入観を捨て、文字として読むのではなく、形そのものを分割して観察するのに、ガイドの格子は役に立った。

ポイントを頭に入れたうえで、薄く印刷された手本の文字を頼りに、ゆっくりとなぞり書きしてみる。普段、何も考えずに書くときとは違って、一画一画が、新鮮な発見だった。

自分が思うより、もっと線を伸ばしても良いということ。楕円の形は、もっと平べったくて良いということ。思いきって傾けると、バランスが取れること。

ただ見るのと、やってみるのとでは大違いである。頭でポイントを理解したつもりになっていても、いざ書くとなると、手がそれを再現できないのだ。実際に書いてみて初めて、こういうことだったのかと、掴むことができる。

それがわかってきたあたりで、次はなぞり書きではなく、格子のガイドの上に自力で書く。はじめのうちこそ、なぞり書きの名残でそれらしいものを書けるが、気が緩むとついつい癖が出てしまい、なかなか思うようにはいかない。ようやく手本に似せて書けるようになっても、格子のガイドのない無地のマス目に書くとなると、線が迷い、何かが違うものになる。

生来の凝り性と負けず嫌いが顔を出して、何度も何度も、繰り返し書いた。どこに何が来るとバランスが良いのか、どこがどれだけずれてしまう癖があるのか、見直しては赤を入れ、微調整して書くことを繰り返した。練習帳に載っているマス目では足りなくなり、コピー用紙にマス目を自作して練習した。

地道に繰り返し、ようやく、手本に似たものが、自分の手から生まれたとき、それは確かに、理想的なひらがなだった。自分の手がこれを書いたということが、信じられないほどだった。

それはまるで、未知の言語を学ぶかのようだった。おそらくは、子どもの頃、最初に文字を習ったときに学んでいるはずなのだが、何も覚えていない。

もしかすると、私も最初は、手本の通りに書けていたのかもしれない。それが、手癖で書いているうちにだんだんと変容していき、日々、そんな自分の書いた文字を目にすることで癖がますます強化され、訂正されることもなく、自分フォントを作り上げてしまったのだろう。

そんな過程を経てきた今だからこそ、丸暗記ではなく、自分の文字と手本の何が違うのかを比較して、どこに気を付ければ良いのか、理解できる。ひらがなの成り立ちを知ることで、元になった漢字がこれだから、こういう形になるのだと納得できる。「に」と「た」に入っている、同じ「こ」のような形が、実は別物で書き方のコツも異なるなんて、初めて知った。

理屈によって文字を理解したのは初めてで、そのやり方が自分には合っているようだった。「そういうものだから」「決まりだから」で漫然と覚えていたのでは、どこが肝心であるのかがわからず、結局は崩れていく。一方で、そうなる理由を一度知れば、忘れない。迷ったときに思い出せる。

今ならばわかる。丁寧に書けば上手く書ける、というのは、字の形を知っていてはじめて、意味をなすことだと。その段階に到達していないのに、いくら丁寧に書いたところで、もともと自分の中にないものを生み出すことはできない。

私がしていたのは、実物のチベットスナギツネをろくに見たこともないままに、イメージの中のうろ覚えのチベットスナギツネを描いては、何か違う、上手く描けないというようなものだった。絵を描こうというとき、対象をよく観察することは基本だと知っていながら、なぜ文字もそうであると気づかなかったのだろうか。

 

ひとつのひらがなの形を覚えて、書けるようになると、小さな満足感があった。他の文字も、こんな風に書けるのだろうか。書いてみたい、と思った。以前に覚えた文字のポイントを応用できる文字もあって、書ける文字が一気に増えると嬉しかった。

文字を書いていて、よろこびを感じる瞬間が、自分の人生で訪れようとは、思ってもみなかった。これまで、それはただ情報を載せるための記号でしかなく、用が済めばさっさと廃棄するだけのものだった。あるいは、面倒で、できるだけ避けて通り、目を背ける対象だった。こうして、目的もなく、ただ文字を書くという行為そのものに向き合ったのは、ほとんど初めてのことであったかもしれない。

 

何であれ、「上手くやれた」という成功体験は、よろこびになる。そして、次への推進力になる。毎日、昼休みに練習をするのが日課になった。

03文字を書くよろこびを教えてくれたエナージェル

練習には、エナージェルを使った。
学生時代から、シャープペン以外の筆記具としては、ゲルインキボールペンをメインに使用している。その当時は他社のものを使っていたが、入社後は専らエナージェルである。字を書くことをできるだけ回避しながらも、どうしても手書きする必要のあるシーンで、いつも頼りにしてきたボールペンだ。

ボール径0.3mm〜1.0mmまで揃う(商品ページより)

ボールペンにも油性、水性、ゲルインキといった種類があるが、私はどうも、油性ボールペンとは相性が良くない。書くというより、刻みつけるといった調子で変に力が入っているのか、すぐに疲れてしまうし、カスレや濃淡差が生じることで、下手な字がますますひどいものになる。ゆえに、軽い力で鮮明に書ける、水性やゲルインキを好んできた。

エナージェルは、紙を撫でるように進むなめらかな書き心地で、いつまでも書き続けられる。潤沢なインキフローは、軽く書いてもかすれることがなく、濃くはっきりとした筆跡を残す。下手な字を鮮明に記すのも気が引けるのだが、だからといって、薄くかすれた筆跡では、ますます読みにくくなってしまう。いっそ開き直って、はっきりくっきりと書くのが、せめてもの配慮である。

インキの海を流れるかのようにペン先が進む、みずみずしい書き心地。乾くのにさぞ時間がかかることだろうと思いきや、意外にも速乾性に優れており、書いてすぐに触っても汚れが付着することがない。至れり尽くせりである。
あえて気になる点を挙げるなら、シルバーとブラックに塗り分けられたメタリックなボディデザインの主張がやや強いことくらいか、と思っていたが、オフホワイト軸のエナージェル クレナ、透明軸のエナージェル インフリーが登場したことで、それも解決した。

たとえ手書きが苦手だとしても、これで書けば、一番ましな文字になるボールペン。それがエナージェルだ。

メーカー社員として、自社製品はまんべんなく使っておくべきだとは思うのだが、気づけばエナージェルばかりを手にしている。メモを取る黒、資料に書き込むラフグレー、チェックを入れるバイオレット、付箋に一言を添えるブルーブラック、眺めて愉しむターコイズブルー、すべてエナージェルだ。

かつての私の使い方では、その真価を発揮できていなかったが、エナージェルは描線に抑揚をつけることができる。太めのボール径0.7mmや1.0mmだとわかりやすいだろう。ぐっと力を込めて溜めを作ると太く、すっと軽く引くと細く。すると、なんだか上手く書けたように見える。まるで筆で書いているかのようだ。
詳しくは、愛用者の方による美文字画像や動画がSNSに多数投稿されているので、そちらをご覧いただきたい。下部リンクから、「みんなの声まとめました」エナージェル編の記事にもまとまっている。

子どもの頃、なにより習字が苦手であった私が、筆のように書けるボールペンを愛用するとは、奇妙な巡り合わせである。逆にいえば、筆も筆ペンも上手く使えない私には、一生縁がないと思っていた、文字を書くよろこびとでもいうものを知ることができたのは、この世にエナージェルがあったおかげだといえる。

04字を練習して変わったこと、変わらなかったこと

さて、このような練習の日々を経て、私は字の上手い人間に生まれ変わった──と言いたいところだが、そんなことはない。会議中のメモや、アイデア出しの走り書き、無意識にペンを走らせるときには相変わらず、以前と同じ、判読不能な文字を書くことができる。今でも、手書き文字の写真を全世界に向けて公開する勇気はない。そこは、字が下手な人間のマインドのままである。だから、字を変えたとか、直したとかいう言い方は、正確ではない。

ただ、意識すれば、それとは違う字を書くこともできるようになった。子どもの頃に言われたように、時間をかけて、丁寧に。親のアドバイスに、数十年越しに納得がいった。そちらの字で書くと、褒められることすらあった。

字が上手い。

お世辞にも言われたことがない、むしろ言ったら皮肉にしかならない、そんな言葉を、自分がかけられる日が来ようとは、いったい誰が想像できただろうか。しかも、別に本来の字が上手くなったわけではなく、そういう字も書けるようになった、というだけのことで。

私の中に、自分フォントの他に、新たなフォントが追加でインストールされたというのが、実感に近い。そちらのフォントで書くと、納得のいくものが書けたりして、手書きも悪くないな、と思う。家族とのコミュニケーション手段を、メッセンジャーアプリだけでなく、ちょっと置き手紙を書いてみようか、となったりする。なんとかして手書きを避けようとしていた、以前ならば考えられないことだ。手書きの場面に、気後れしなくなる。

どうせなら、履歴書を書く前にインストールしておけばよかった。しかし、過ぎたことを悔やんでも仕方がない。このご時世なので、一旦就職したからといって、この先もう履歴書を書くこともないだろうと言い切るのは早計であるが、あるとしても、そういった書類は、手書きではなくデジタルが主流になっているはずだ。

ともかく、人生で手書きを迫られる場面は、すでに乗り越えた。せっかく普通の字を書けるようになったというのに、少々残念ではあるが、そのありがたみを感じる機会はもう、転生でもしない限り、この先訪れまい。

などと思っていたのだが、それは意外な形でやってきた。

 

あらゆるものがデジタル化され、確定申告もオンラインで済むようになった昨今、なお、役所に手書きでの提出を求められる書類がある。私も、そういうもののひとつを届け出ることになった。

原本は役所に提出するものなので、手元に残るわけではないし、その出来不出来で何を審査されるわけでもない。しかし、それなりに重要な決心を示す書類であり、提出するにあたっては、これから人生を共にしようという相手、および署名してくれる証人の目に触れることとなる。できれば、先行きを心配されるような字を書くことは避けたいと思うのが人情である。

自分の中に新しいフォントをインストールしておいたおかげで、私は気後れすることなく、シャープペンで薄く下書きをしたり、スマホに表示させたお手本を透かしてなぞったりすることもなく、それを書くことができた。

なお、使用したのは、もちろんエナージェルであり、具体的には、シリーズの中でも高級ラインのエナージェル フィログラフィである。金属軸ならではの重さと硬質な感触、キャップ式でもノック式でもない、回転繰り出しの所作が、特別感を高める。

ここぞというときのエナージェル フィログラフィ

知らなかったのだが、最近は役所で配布しているシンプルな届出用紙以外にも、キャラクターやブランドとコラボするなどしてオリジナルのデザインを施された様式というものがあり、雑誌の付録になったりオンラインで配布されていたりする。それらは親切にも、提出用と、自分たちの手元に記念として残す保存用のセットになっていることが多い。
我々も、そのタイプを利用したため、手元には保存用の一枚が残っている。今見ても、字の下手さを嘆くことはなく、書いたときの気持ちを、手にしたペンの重さとともに思い出すことができる。

以前の私であれば、たぶん、何かと理由をつけて、それを残そうとはしなかっただろう。大事なのは提出用書類のほうであって、保存用には法的根拠があるわけでもない、とか。昔はそうやって記念といって手元に残す風潮はなかったはずで、流行に乗せられているだけだ、とか。なんでもかんでもセレモニーにするのはいかがなものか、とか。

自分の書いた文字を残しておいて見返すなど、悪い夢のようなもので、ごめんだと言っただろう。手紙も、日記も、後に残るものは、できるだけ避ける、そんな人生を送っただろう。

些細なことでも、それがきっかけとなって、異なる選択を導き、異なる行動、異なる結果へと結びついていく。

どちらが良い、悪いという話ではない。何かを残す方法は、手書きだけとは限らない。単に、かつての私は、自分の手書きに価値を感じていなかったので、そんなものは残さなくていいと思っていたし、今の私は、残してもいいと思うようになった、というだけのことだ。

人の考えは変わるものだし、変わらないなら、最初から完成していて成長がないということになる。人間にそんなに一貫性はないということが、最近わかるようになってきた。変化できるということが、人の強みであるともいえるのではないか。

文具メーカーに入っただけで、自動的に字が上手くなることはなかったが、ふと練習してみようかと思い立って手を動かしたとき、ようやく、ささやかな変化が生まれた。外部から強いられるのではなく、内発的な動機があって行動したとき、はじめて、人は変われるのかもしれない。

字の練習はいいぞと、昔の私にそんなことを言っても、たぶん、聞き入れることはないだろう。あの頃は愚かだったとか、間違いであったとは思わない。あれはあれで、きっと、正しかった。そのときには、そのときなりの、譲れない信念というものがある。

それは、別にずっと持ち続けなくてはいけないわけではない。これまでがどうであったとしても、それに縛られることなく、変えても良いものだということだけ、伝えたい。

05下手な字を書ける自分も、普通の字を書ける自分も

字が上手くなったら成績も上がって人間関係も改善して宝くじも当たってハッピー、というのは宣伝広告の中にしかない話だし、だからみなさんも字を練習しましょう、とまとめるつもりもない。
ここで唐突に、ペン字の練習帳や講座のアフィリエイトリンクが登場することもないので、安心してほしい。あるのは、せいぜい、エナージェルの商品情報ページへのリンクくらいのものだ。

手書きをしなくても、生きていくことはできる。実際、私はできる限りそうしてきた。ただ、気が向いたら手書きすることに抵抗はない、という状態のほうが、行動の幅が広がるのは確かだ。自分で書いたものを見るたびにどんよりするよりは、おっ、なかなかやるな、と思えたほうが、精神衛生上もよろしい。

書いて満足したり、褒められたりすることで、また書いてみようかと思うようになるし、もっと意のままに書きたいというモチベーションにもなる。それは、手書きをしなければ、生まれなかったはずのものだ。ささやかなよろこびを、紙とペンがあるだけで、この手で生み出すことができる。そのことに、遅ればせながら気づかされた。

 

「自分は字が下手な人間」というのは、一生ついてまわると思っていた。それがアイデンティティのようにすら感じていた。自分の字というのは1種類しかなく、自分自身とイコールで結ばれる、分かちがたい関係にあるのだと思っていた。

字を直すこと=自分を否定し、何かを失うこと。己を偽ること。正しいとされるものに、自分を合わせて、自由を失うこと。

そうではなかった。

後からでも、新たなフォントをインストールすることはできるし、それで何か、これまでの自分が失われてしまうこともない。下手な字も書けるし、普通の字も書ける。どちらも、自分だ。これからは、そう言える。

新しいものを取り入れ、使えるようになること。それは必ずしも、代償に何かを失ったり、できなくなったりすることを意味するのではない。むしろ、それまでに加わるかたちで、できることが増えて、総体として豊かになるということだった。

なお、私はいまだに、油性ボールペンでも、シャープペンでも、筆ペンでも、字を上手く書くことができない。それなりの字を書けるのは、練習で使ったエナージェルで書くときだけだ。

だから、字が上手くなったというのは勘違いで、単にエナージェルのおかげという説もあることを、書き添えておきたい。