表現フィールドリサーチ
アートを若者の生きる糧に。タイ在住画家・阿部恭子が続けるアートを通した支援活動
タイという国に、みなさんはどんなイメージを持っていますか?
カラフルで元気で、食文化が多彩で――。そんな多くの人が感じるタイの魅力に引き寄せられ、着の身着のままで移住を決意したのは、イラストレーターから画家へと転身を遂げた阿部恭子さんです。画家として活動するかたわら、ぺんてるの海外販社であるタイぺんてると共に子ども向けの絵画教室やワークショップを開催。そうした活動の中で、人と一緒に描く楽しみを見出していったそうです。アートを通じた災害ボランティアや、若い才能を発掘するアート支援活動など、阿部さんが力を入れているさまざまな取り組みについてお話を伺いました。
01表現するよろこびを、みんなで共有したい。
日本でフリーランスのイラストレーターとして活動していた阿部さん。移住のきっかけはなんだったのでしょうか。
「とにかく、絶え間なくイラストのオーダーが入ってくるんですよ。それはそれで楽しかったのですが、商業的になればなるほど自分の思ったようなイラストが描けないなと思うこともあって、限界を感じていたんです」
自身の居場所に違和感をもった阿部さんは、思い立って日本脱出を決意。
阿部恭子さん。1967年、大分県生まれ。福岡のデザイン学校を卒業後、フリーランスのイラストレーターとして独立。1996年にタイヘ移住。1997年、 小学館「おひさま大賞」受賞。自身のアートワークショップの開催や企業とのコラボレーション、ギャラリー経営など幅広く活躍する。
「これだけ便利な日本という国にいたら、目をつぶっていても家に帰れる。それって、自分にとって刺激もなく、このままどんどん時が経っていくんじゃないかと思ったら怖くなったんです。それでちょっと不便な国に行こう、と。アフリカとタイで迷ったんですが、おもちゃ箱をひっくり返したようなカラフルな街並みに惹かれて、タイに決めました。あ、あとは日本で食べたトムヤムクンの味にも魅了されて(笑)」
街のいたるところに、カラフルな色彩が溢れるタイ。人々の優しさや、アジアならではのエネルギッシュさ、そして一杯のスープに導かれ、タイへと移住。
現在は画家として活躍するかたわら、アジアの若手アーティストを発掘支援する「White Canvas」をはじめ、東日本大震災で被災した岩手県釜石市での壁画制作や、スリランカのストリートチルドレンの支援、さらには障がい者アートの後押しといった「アート×子ども」の支援活動に力を入れている阿部さん。
都市部と地方での激しい経済格差が問題になっているタイで暮らすなか、不遇な環境に置かれた子どもたちを支えたいという気持ちが芽生えたことが、活動を始めたきっかけなのでしょうか。そんな質問を投げかけてみると。
「タイでは、都市部と地方の経済格差がすごいんです。地方では貧しい環境下にいる子どもの暮らしは、日本では想像できないほどです。でも、貧しいから救いたいとかそういったことではなく、みんなで絵を描きたい、ただそれだけなんです」
3歳のころにはすでにペンだこがあったなど、絵を描くことがあまりにも自然だったという阿部さんは、空想や妄想に耽る楽しさや、描く楽しさをみんなで共有したい。そんな想いから、渡タイ後は子ども向けの絵画教室やワークショップもスタートしました。
毎日筆を取るという阿部さんの指には、今でもペンだこがある。
「私自身絵を習ったことがなかったので、子どもに教えるなんてことは考えてもいなかったんです。けれども街のホビーショップでひょんなことから教え始めたら、子どもたちの発想に触れるのが楽しくて。子どもの考え方って天才じゃないですか。そんな彼らと一緒に絵が描けるだけで、毎日がハッピーな気持ちになるんです」
ワークショップの様子
絵画教室やワークショップを通して、私たちぺんてるも阿部さんと出会いました。その縁はなんと、実に20年以上。阿部さんが信じる、アートの可能性が私たちぺんてるの想いとも重なりました。
02右も左も分からない若手アーティストの道標として。
2017年4月。前年にタイの国民から敬愛されていたプミポン国王が亡くなり国中が喪に服しているなか、長らく付き合いのあったタイぺんてるの社長から、阿部さんに大きなプロジェクトの依頼が持ちかけられます。
「国王が亡くなって、タイの人たちが悲しい顔をしているので、みんながよろこんでくれるような明るい絵をBTS(バンコク中心部を走る高架鉄道)に描いてほしいと依頼を受けました。“ぺんてるの宣伝はいらないので”という前置きがあった上で、電車を見たときにタイの人たちが手を振ってくれて街が明るくなったら、僕はそれだけで嬉しいと言われたんです。アートを通して人々をよろこばせたいという、そんな社長の考え方がかっこいいなと、すぐにお引き受けしました」
アートのモチーフを考え始めた当初は、日本人だからこそ描ける日本をモチーフにした絵の方がいいのではと言われたものの、タイの人たちによろこんでもらいたいという気持ちを優先したかった阿部さんは、タイを駆け抜ける列車の車体に、王宮、水上マーケット、卸売市場、無数のランタンが舞う祭りのコムローイといった、タイの風景を象徴するような4つの景色を半年ほどかけて描き上げました。
モチーフはタイの伝統的な祭や日常の風景。上から、王宮、水上マーケット、タラート(タイのローカルマーケット)、コムローイ(チェンマイで開催される伝統的なランタンを上げる祭)。
「画材はどのメーカーのものを使ってもいいと言われて、なんて粋なんだろうと思いましたね。普段からいろいろなメーカーの画材をごちゃ混ぜにして使っているので、いつもと同じように描いたのですが、やっぱりぺんてるの画材がとても使いやすくて」
アートに対する心意気に触れた阿部さんですが、画材を提供してくれたぺんてるへの敬意を込めて絵の中には“隠れぺんてる”として、ぺんてるの製品も描いたのだそう。
「実際に電車が走っている光景を見ると、やっぱり手を振りたくなるんですよね」
タイで画家としてゼロからのスタートを切り、大きなプロジェクトの依頼も来るようになった阿部さん。そこに至るまでの道のりで、アートで食べていく若者に対する後押しが必要だと感じたそうです。
「とはいえタイに来たばかりのときは不安でいっぱいでしたよ。絶対に成功する安全な道はないにしても、できれば間違いが少ない道に進みたいですよね。だから、私が駆け出しのときに“こうしてもらったら嬉しかった”という道を示してあげたいと思っているんです」
アートで成功するには才能はもとより、どういう人たちに向けて何を販売すればいいのか、自分の絵を広く知ってもらうにはどうすればいいかといった“方法”を知る必要があるといいます。学校では絵の描き方は教えてもらえても、アートで食べていくための術については誰も教えてくれません。
阿部さん自身も、子どものころは絵が自分の生活を支えるほどの仕事になるとは考えておらず、タイにはイラストレーターという仕事がなかったため、画家に転身したという経緯があります。
描く絵はみなカラフルでエネルギッシュな色彩にあふれている。不思議なことに、タイから別の国に渡りアート制作をするとその土地らしさが作品にも反映されてくるのだとか。
アーティストたちの道標となり、子どもたちが絵で食べていけるような世界を作りたい。そう思い至り、「東方文化支援財団」が立ち上げたWhite Canvasの活動に賛同した阿部さん。こんなに楽しいことはないだろうと直感し、カンボジア、スリランカ、タイの3カ国から始まった活動に、阿部さんはタイのスタッフとして参加することとなったのです。
03楽しみの先に、生きる糧があることを教えたい。
「ずっと絵に携わってきて思うのは、やっぱり絵で食べていくっていうのは本当に難しいということなんです。だから、アーティストとしての可能性は、アーティストになりたいと思う以前の幼いときに潰されてしまう。子どもたちが『画家になりたい』とか『音楽家になりたい』といっても、親は『いやいや無理でしょう』という。とりあえず普通の仕事をしてアートは趣味でやる。そういうことが小さいころから決められていくのは、タイも日本も同じなんですよね」
現在ではタイと日本を行き来しながら、精力的に個展も開催している。
タイに移住したころは、街が未成熟でありながらも、そこから湧いてくる新しいエネルギーがおもしろかったと振り返りますが、今や目覚ましい発展を遂げたタイの都市部は、日本の便利さとさほど変わらなくなってきてしまったといいます。
「一方でタイやカンボジアなどの地方に行くと、絵の具を買うお金さえなく『学校に行くぐらいなら農業を手伝って』といった光景も、まだまだ見かけます。絵がお金になる可能性があることを親も子も知ることができれば、少しでもその子の人生が変わると思うんです」
そんな阿部さんが参加するWhite Canvasの活動にはふたつの目的があります。
一つは活躍の場を得られていないアジアの開発途上国のアーティストを発掘して、世界的なキュレーターとつなげること。
入賞作品にはICタグ付きブロックチェーン証明書が添付され、売買のたびに販売金額の20%がアーティスト本⼈に還元。これが繰り返されることで、若いアーティストたちが食べていけるように支援しています。
White Canvas projectは2020年よりスリランカ、カンボジア、タイの3カ国で始まった活動。アート支援だけでなく、生涯にわたりアーティストへ収益が還元されるシステムを構築するなど最新のテクノロジーも活用している。
とはいえ、私はもう一つの活動の方が大事だと思っていると言葉に力が入る阿部さん。その活動とは、アジアの開発途上国の中で絵の具を買うお金がない、さらには絵の具に触ったことすらない子どもたちのいる地方へと赴き、絵の具の使い方、絵の描き方、さらには絵を描くことが人生のチャンスになるということを伝えるものです。
絵の具やクレヨンに触れたことがないような子どもたちにも、絵を描く時間が増えてほしい。そんな想いを抱くのは、阿部さん自身が絵を描くことに没頭した幼少期が、かけがえのない時間だったからかもしれません。
「ほとんど絵の具を使ったことがない子どもたちが、思ってもみないような使い方を見せてくれると本当に感動するんですよ。構成も遠近感もヘンテコなんですが、そういうのがおもしろくてキュレーターのウケもよかったりするんです。単なるコンテストだったら『賞をとったね、よかったね』で終わりますが、これが人生のチャンスになり、食べていけるように支えていくことも私たちがつくりたい世界なんです」
阿部さんの活動はこれだけに留まらず、特別支援学校に赴いて絵の指導をするほか、素敵な絵は自身が経営するギャラリーで買い取ることも。
「障がいのある子どもを持つ親御さんたちの不安っていうのは、計り知れないものなんです。今は絵が売れたとしても子どもたちに入る金額は僅かなもの。ですが、絵で食べていける世界ができればいいですよね」
支援先は変われど、阿部さんの活動の中心にある想いは変わりません。
ほかにも、スリランカのストリートチルドレンの女の子たちが食べていけるように支援するNPO法人では、アートを知らない子どもたちと一緒に壁画を制作するプロジェクトも遂行中。みんなで壁に描いた絵で、みんながよろこんでくれたら嬉しいと言われ、やりますと即答。これこそ阿部さんが求めていた“みんなで絵を描く楽しさ”なのかもしれません。
04すべてはアート。完璧なものからアートは生まれない。
タイを拠点に活動を続ける阿部さんですが、実は日本でも大きなプロジェクトを行っていました。それは、東日本大震災で被災した釜石市の公園で壁画を制作するといったもの。遊び場として作られた「釜石こすもす公園」の目の前にある工場の巨大な灰色の壁を見て津波を想像してしまう子どもたちがいたことがプロジェクトの発端でした。
「希望の壁プロジェクト」。壁一面に描かれたアート作品。
「最終的には延べ500人くらいのボランティアスタッフが集まったのかな。みんなで絵を描くことが本当に楽しかったし、ときには本気で喧嘩もしました。だって『真っ直ぐ描いてほしい』と言っているのに、適当に描いて『手伝ったからいいじゃないか』とか言うんですよ。ボランティアってそういう気持ちでやるものではなく、この活動が継続していくことに関しての責任があるわけです。絵を描くことに関しては譲れないので、最終的には殴り合いの喧嘩ですよ(笑)」
誰とでも本音でぶつかるのは阿部さん流。アートに向かう気持ちは、たとえボランティアだったからといっても妥協はありません。
「人との関係性もアートだし、料理も会話も違った視点で楽しくできたら、もうそれはアートだと思うんです。デジタルの世界もいいですが、最後に残るのは自分の手で描いたものじゃないですか。発掘される遺跡にしても、やっぱり手で彫ったり描いたりしている。そういうものが最後に残るんですよ。それをつなげていくには、みんなが頭を使って絵を描くこと。それがずっと続いてくれたら本当に嬉しいんです」
日本とタイを往来しながら約1年かけて壁画は完成。この1年の間にボランティアスタッフたちの熱意や技術にも徐々に変化が起きたそうで、指や手を駆使して集中するといった時間は、私たちにとって大切なことなのかもしれません。
タブレットなどのデジタル機器があふれる昨今とあり、画材を使わなくとも絵が描ける世界になっているものの、阿部さんが求めているものは、クレヨンなどを駆使して子どもたちが一心不乱に描いたアナログな絵。
「色をひとつ塗るにも、絵の具やクレヨンだとアクセントが生まれるんです。便利で誰もが上手に描けてしまうタブレットもいいかもしれないけれど、その一瞬で生まれる表現はタブレットにはきっと出せないと思います」
タイを愛する阿部さんの作品のモチーフは、タイでの日常。夫と娘と過ごす日々を絵日記のように残した作品が多い。
そう話す阿部さんが日本を離れた理由は、いい加減であっても、そのいい加減なところからおもしろいことが生まれてくるタイの空気に惹かれたため。そんな風に、子どもたちが描く絵のような未完成な魅力を後世に残したいからこそ、阿部さんは描く楽しさを世界各地に広め、子どもたちがアートで食べていける可能性を広げていきたいと願っているのです。