ぺんてるの山田です

35年目の新キャッチコピー。定番シャープペン「スマッシュ」をどう書くか

35年目の新キャッチコピー。定番シャープペン「スマッシュ」をどう書くか

〜前回までのあらすじ〜

発売35年のロングセラーシャープペン「スマッシュ」のブランドコンセプトを再定義したぺんてる。今度はそれをキャッチコピーとして出力する段階に。はたして、スマッシュの長年積み上げてきた価値に見合うコピーを生み出せるのか?

ぺんてる社員が語る連載、後半です。

01「書くこと」に特化したスマッシュがもたらす自由。それは、自分を信じられること

思えば、ぺんてるがノック式シャープペンを発売して、60年以上になる。その間、現在に至るまで、新製品が開発され続けてきた。

ある時は「折れない」がブームとなり、当社のオレンズをはじめ、各社から工夫を凝らした新作が発売されたことは記憶に新しい。また、少し遡れば、当社ではすでに廃番となっているが、人間工学に基づいた独特な形状のグリップが登場した時代もあった。芯に香りをつけたものや、複数の芯径を使い分けられるもの、芯に触れずに交換できるカセットを搭載したものも、一時期あった。

シャープペン売り場を見れば、多種多様な商品が、自分はただのシャープペンではないとばかりに主張して並んでいる。最近のシャープペンは、とても親切だ。あらゆる悩みに対して、それを解消する機能が、至れり尽くせりで提供されている。

芯が折れる? 折れないものを作りましょう。
ノートが汚れる? 汚れないものを作りましょう。
手が疲れる? 疲れないものを作りましょう。
ノックが面倒? 自動で芯が出続けるものを作りましょう。

とても素晴らしいことだと思う。そうやって、すでに完成されたと思われたジャンルでも、さまざまな驚くべき新商品が生まれ、今もまた作り出され続けている。そのうち、シャープペンの概念を覆すような新発明もなされるのではないだろうか。よりよいものを求めて、知恵と技術は進化を続け、止まることはない。

だが、スマッシュの場合、それとは立ち位置が違う。

機能に優れているといっても、特定の悩みを解消するような、何か一つに特化しているのではない。強いて言えば、「書くこと」に特化している。35年前、スマホどころかPCも普及する以前の人々にとってはより身近だったであろう「書くこと」に向き合った結果、生まれたもの。それが、最新の機能を搭載したシャープペンと並んで、今も現役であり続けている。

書き続けるためには、自分でノックしなければならないし、線が太くなってきたと感じたら少し軸を回す必要があるし、筆圧をかけすぎれば折れる。

シャープペンの方で忖度し、よきにはからって、自動的に何かをしてくれるわけではない。それを、面倒だとする捉え方もあるだろう。一方で、そうでなければ得られないものもある。

自分で操作して、走らせているという実感だ。

舗装された道を、空調の効いた揺れない静かな乗り物で移動することを、快適と思う人もいれば、地面の凹凸を直に感じ、風を裂いて、緩急をつけながら、己の思うままの力と速さで走ることにこそ、喜びを感じる人もいる。

「こう書け」と、スマッシュは言わない。何を書くためとも、限定しない。

ユーザーの手に、委ねられている。自由に書いてくれ、と。そして、その期待に応えることを、スマッシュは約束している。極めて基本的であり、普遍的な要素を突き詰めたからこそ、できることである。

 

自由であること。気楽であるようで、そこには、確固たる意志と、責任が伴う。何も決められていない、何にも縛られない状況では、純粋に、自分自身の力を問われるからだ。自分を信じることができて、はじめて、自由を手にすることができる。

自分を信じられる──そこに思い至ったとき、私の中で、確かな手応えを感じた。

つまり、そういうことではないか。スマッシュに求めるもの。使うことで得られるもの。その先にあるもの。

出口の見えない不安に覆われたこの世界で、求められているものとは。

そして、私が提案したコピーがこれである。

 

スマッシュを信じる。自分を信じられる。

 

「いける」という確信でもって、私はプレゼンした。スマッシュを信じることで、自信が生まれるという、ある種のお守り、心の支えのような、確かな存在感。大事な試験の際などに、これを使えばきっと大丈夫だと思えるだけで、いくらか心が落ち着くものだ。スマッシュを使い、実力を発揮する、そんな体験を繰り返すことで、スマッシュも、自分自身も、ますます信じられる存在になっていく。

そして、もっと広い意味で、「スマッシュを信じる自分」を信じられる、つまり、シャープペン選びをはじめとする、自分の選択に自信を持つことができる状態、という意味も含んでいる。

スマッシュが35年かけて積み上げた、信頼という、かけがえのない資産を表現したつもりだ。

 

結果、「ちょっとよくわからない」というのが、メンバーの反応であった。書いた本人は、よくわかっているつもりだったので、そのギャップに戸惑った。同じものを目指して共に歩んできたはずの仲間に、急に、音楽性の違いを突きつけられた心地だった。

だが、今こうして振り返ってみると、たしかによくわからない。メンバーの反応も、無理もない。共に活動してきた社員でもこうなのだから、お店で初見の人の反応がどうなるか、推して知るべしである。

 

一般に、キャッチコピーには、何らかの飛躍が必要だ。当たり前のことを言っても、コピーにはならない。とはいえ、飛躍しすぎているというのも、これまたよろしくない。何を言っているのか伝わらなくては、意味がないのだ。

だいたい、考えに考えた末に、ふっと思いがけない結びつきのようなものが見える瞬間があって、思いついた本人は「これだ」と思って、あたかもそれが暗闇に差す一条の光のように感じて、そこに向かってまっしぐらに突き進んだりするのだが、必ずしもそれが望ましい答えとは限らない。眩しく見えていたのは、希望の光ではなく、地獄の業火であって、炎上まっしぐらということもある。

本人は、発見したという興奮に駆られているので、他の可能性には気づかないのである。こんなことを思いつくのは自分くらいだ、なんて、恥ずかしげもなく自惚れていたりする。他の人は気づいていてもやらなかっただけだ、ということに思い至る能力は、ここでは失われている。自分で気分が乗って書いたものを公平な目で客観的に見るのは、実に難しいことだ。

プロであれば、そのあたりはうまく切り分けて、抑制を効かせることもできようが、私のような素人には難しかった。少なからず思い入れというものが生じ、客観的な判断を曇らせる。かつて「振るだけシェイク・スルー!」を思いついたとき(前編参照)から、何も学んでいない。スマッシュ派の一員になれたと思うことで調子に乗って、まるで自分が一番スマッシュを理解しているかのような錯覚に陥るが、たぶんスマッシュユーザーは皆、そう思っている。

02書いたものがすべて。150案の中から選ばれたキャッチコピーは

私はパラメータ設定において、コミュニケーションスキルへの割り振りを極限まで削ってこの世界に転生したモブであるからして、ここで己の意図をなめらかに説明し、聴衆を引き込まずにはいられない天性のカリスマ性でもって説得する、などという芸当は不可能だ。それができる人間なら、とっくに新しいビジネスを興している。

それに、説明しなければ伝わらないというのであれば、それはもう、伝えることに失敗している。自ら発したギャグのオチを説明させられる苦行のようなものだ。自分が悶え苦しむだけならまだいいが、会社の名の下に発信するものとしては、不適切であると言わざるを得ない。

何の説明も要らない、書いたものがすべて。以上である。

 

書いたものがすべてなので、それがボツになったというシンプルな事実は、どうあっても覆せない。今日に至るまでの日々が思い起こされる。ここまで最も身近にいてくれたことへの感謝と、少しばかりのかなしみを抱えながら、私は「スマッシュを信じる。自分を信じられる」に別れを告げた。

そして、念のため用意しておいた、代案を提示した。

具体的には、150案ほど出した。

第一の案「スマッシュを信じる。自分を信じられる」、これは、頭の中であれこれ思いを巡らす中で、突然に降って湧いた言葉ではない。中には、天才的なひらめきでもって、これしかないという1案を出し、そのまま決定に至るというケースもあろうが、凡人である私がそれを真似ても大惨事になるだけだ。

この案に至るまで、とにかく書いた。頭の中で遊ばせているだけで、書き留めることをしなければ、はかなく消えて、二度と取り戻せないとわかっていた。何も手放したくなかった。消えかけようとするものを、手繰り寄せ、掴み取って、書き殴った。

書いたものがすべて、そんな風に思っているからこそ、書いた。書かずにはいられない。書くことでしか、伝えられないからだ。

ひたすらに、思いつく限りに書いた。もうこれ以上はないというほどに書いた。ないだろうなと思える案も、捨てずに全てを書いた。

伝えたいことを最も言い表している言葉は、「本気」なのか、あるいは「本能」、「衝動」、「魂」なのか。キーワードと思える単語から、いくつもの案を派生していった。視点を変え、要素を分解し、あるいは統合しながら、模索した。書いた案を眺めていると、また思考が刺激され、書き足すことを繰り返した。

会社近くの橋の上で、ふと思いついた言葉を、逃さぬようにと足を止めて急いで書き留めた。スマホのタスク管理ツールに。

そこは紙とシャープペンじゃないのか、と叱られそうだが、仕方あるまい、スマホの方が手近にあったのだ。我々はなにも、筆記具のシェアを奪うからといってデジタル機器を敵視するものではない。日々の業務ではデジタル化が推進されているし、部署の親睦費の集金は○○ペイだし、この原稿だって、PCからタスク管理ツールに打ち込んでいる。暗記シートをスマホで作れるスマート文具も発売しているのだ。どちらかと決めつけずに、やりやすい方法を選べば良い。

 

そうして残された記録。機能に基づいた説明的なものから、使うことで得られる心理状態を表現したもの、ちょっと何を言っているのかわからないものまで、思考の過程に沿って、さまざまな深度の言葉が、そこには記されていた。

何を言っているのかわからないもの(例)

第一案は飛躍しすぎていたようだが、行き過ぎてしまったのであれば、振り返ってみて、どこかにちょうど良いものがあるはずだ。ないのであれば、どうしようもない。私の考えるスマッシュは見当違いということだ。無理に続けさせるより、こいつに任せたのが間違いだったと認め、リセットして他の適任者を探すのが一番だ。

私の好みで選ぶと、また的外れな提案をしてしまうかもしれないという懸念から、すべての案を見てもらうことにした。

 

その中から、メンバーの合議によって決まったコピーが、これである。

うん。なるほど。

というのが、第一の感想であった。結構、普通のになったな、というのが正直な思いだった。もっと捻って出したものもある中で、自分としては、直球勝負なこの案は、それほど目立たない存在だった。ちょっと当たり前すぎることを言っているような気さえしていた。

だが、私の個人的な思い入れがあてにならないことはすでに証明されている。作り手として、時間や手間をかけたものほど、どうしても愛着というものが生じてしまう。ここは、皆の判断に任せることにした。

03過去との対話、そしてその先へ。どう書くかは自分が決める

その後、このキャッチコピーはチラシや店頭ディスプレー、Webページに使われ、2022年現在、各所に展開している。以上が、私の為した仕事である。

発売から数ヶ月経って、今一度、客観的に見てみる。見慣れてきたこともあるのかもしれないが、これは、結構スマッシュらしいコピーだったのではないかと思う。

 

過去のスマッシュのコピーと並べてみると、どうだろうか。

「書くことを考えるとシャープはこうなる。」(発売当初のチラシ)

「どう書くかは自分が決める」

発売当初のコピーは、メーカーとしてのプライドが滲んだ、書く人への機能的価値の提案といえよう。少々、挑戦的ですらある。

対して、今回の新コピーは、使い手の意思を感じる。書くことを考えると、シャープペンは「こうなる」とメーカーは断言しているが、それを使ってどう書くかは、ユーザー自身が「決める」のである。
これは、私が言いたかった、「自分を信じられる」「自由である」状態、そのものである。作る者と使う者、35年越しの対話が、ここに見て取れるというのは、言いすぎであろうか。

 

「自分が決める」。強い言葉だ。

スマッシュを使うことで、決めていけることがあると思う。これを使う人々の中には、学生も多いだろう。未来に可能性を感じ、何にでもなれると夢を抱く一方で、この先の進むべき道について、迷い悩むこともあるだろう。ときに、思い通りにならず、壁を感じることもあるだろう。

彼らには、自分で何かを決めていけるという実感を、手にしてほしい。たとえば、学校でシャープペンが解禁され、初めて小遣いでもって、自分でこれと決めたシャープペンを買って使うということが、その一歩であっても良いと思う。

そんな想いを込めた、などというとおこがましいことこの上ないが、私自身、シャープペンによって救われた人間だ。

頭の中のものを、シャープペンで書き出すとき、私はどこまでも自由であり、紙の上で何をどうするのか、すべてを自分が決めていた。誰に言われるでもなく、時間を忘れて、ただただ、自分のために書いていた。そのような振る舞いができる、唯一の場所だった。無心になって書き連ねながら、自分は何者か、幾度も問い掛け続けた。ままならない現実に対する、それは、抵抗であり、救済であった。

あの頃の自分が、確かに、今の自分を形成していることを感じる。

子どもの頃は、大人になれば、自分の意のままに好き勝手にできるのだと信じていたが、実際にはそうではなく、多少自分で決められることが増えたとはいっても、何もかもを意のままになど、できはしない。何かを求めるほどに、何かに抗うほどに、それが叶わないことを知る。

この世の中には、自分の力ではどうすることもできないことがある。そんな現実を、特に昨今、私たちは思い知らされ続けている。

本当に自分で決められることなど、わずかしかないのかもしれない。だが、少なくとも、シャープペンを手にし、目の前の紙に何を書くかを、自分で決めることはできる。

どう書くか。どう生きるか。

書くことの力を、信じている。だから、これは、自分にも向けた言葉なのかもしれない。

04書いて残すことで、変わる何かがある。私がこの記事を書いた理由

ところで、今回、記念すべきコーポレートサイトリニューアルオープンに伴ってこの記事を書こうと思ったのは、自分の書いた言葉がお店に並んでいるのが嬉しくて、「あのキャッチコピー書いたの、実は私なんです」と名乗り出たかったから、というわけではない。実はも何も、シャープペンにキャッチコピーが存在するという事実すら、おそらく一般には知られていない。

短いキャッチコピーを作るのにも、いろいろ考えて苦労して、伝えたいことがあって、しかし結果的にコピーからそれが伝わっていなかったらどうしようという恐れから、補足としてここで念入りに説明しておこうという姑息な考え、というわけでもない。いや、まったくないとはいえず、可能であれば店頭ディスプレーにこの記事のQRコードを貼り付けてもらえるとありがたいのだが、とにかく、本筋ではない。

この記事のQRコード(前編)

(後編)

それでは何なのかと、簡潔に言うと、ネタを考えていたとき、次の社内報で、「スマッシュの歴史をたどる」という特集が組まれると聞いたからだ。発売当初から現在に至るまで、35年間でスマッシュをめぐる状況がどのように変化し、成長していったのかを振り返る企画だ。

自社でやってきたことなのだから、根拠も資料もしっかりしているだろうし、簡単なことだろうと思われるかもしれない。確かに、過去のチラシや製品画像はアーカイブされているので、出せと言われれば出せる。しかし、それはあくまでも、世に出るに至った最終的な完成形だ。そこに至るまで、どのような背景があり、紆余曲折があり、何が決め手となって、その結論に至ったのか、そこまでは記されていない。推測するにしても、当時と現在とでは状況が異なり、限界がある。

記事にまとめるため、広報担当者はあちこちの関係者に問い合わせ、話を聞きに行き、過去のnoteや社内資料をまとめ、異なる視点から寄せられるさまざまな意見の調整を重ねていた。その一環で、私も新キャッチコピー制作の経緯を400字以内で簡単に説明した。ひとつの特集記事を作るのも、大変なことだなと感じた。

 

その当時はさほど注目されていなくても、年月が経ってから振り返ってみるときに、それが何らかの意味を持つことがある。

当時の人は、何を思って、こんなコピーをつけたのか? このとき、何があったのか?

遠い未来に、それを知りたいと思う人間が出てくるかもしれない。

これは、私が書き残さなければ、胸に仕舞ったまま、誰に知られることもなく消えていく。そして、そのときに調べようとした人間が、資料がなくてまた苦労することになる。

だから、ここに残しておくことにした。社内報に載せれば良いと思われるかもしれないが、これだけの内容を掲載するとなると、薄い冊子が分厚くなってしまう。予算超過で広報を泣かせたくはない。

なにか製品について調べ物をしようというとき、まずはコーポレートサイトというのが多くの社員にとっては身近であるし、リニューアルによってさらに情報を潤沢にしていこうという方針にあるのだから、置き場所としては、ここが適切だろう。

役に立つのは、10年後か、20年後かわからない。それまで、この記事が存在しているか、スマッシュや自分がどうなっているかもわからない。一番ありそうなのは、特に誰の役に立つこともなく、埋もれて、忘れられていくことだ。そうであっても、構わないと思う。

ただ、信じて、残すだけだ。これからも紡がれていくであろう、スマッシュの歴史の一部に関わった人間としての、それが責任であると思う。

 

そんな限りなく内部の事情はともかく、もしも店頭でスマッシュのキャッチコピーを見かけることがあったら、「そんなことを考えてつけているんだなぁ」と思ってもらえたら嬉しい。

かつて、「忘れられない一本」として、2回もnoteに登場してサイドノック式シャープペンについてしつこく語り尽くしたのだから、この先もう書くこともないと思っていたのに、またこうして延々と語っている。不思議なこともあるものだ。

少ない内容を水増しして薄め、長文に仕立てるのは私の得意とするところだが、今回のコピー制作を通じて、短い言葉で言い切るのも、また良いものだ、などと思っていたというのに、結局こうして長々と書いていては世話がない。Twitterには向かないタイプだ。「そんなことより、スマッシュの0.9が復刻されるのか知りたい」という方が、うっかりここまで読んで時間を無駄にしてしまっていないことを願うばかりである。

確かなのは、スマッシュによって、ここまで書かされてしまったということだ。スマッシュは、いわば、「書きたい欲」を刺激すると、かつてプロジェクトメンバーが言っていた。その通りだったなと思う。実際に手にして紙に書くことも、そして、このようなかたちで、書いて語ることも、どちらもしたくなる、そんな存在であることが、図らずも証明されたのではないだろうか。

 

さて、ここまで語ってきた、これはあくまでも、私から見たスマッシュだ。これがぺんてるの公式見解、などと言うつもりは、毛頭ない。「※個人の感想です」というやつだ。この記事は、そういう方針のもとに執筆されている。

人によって、「スマッシュとは何か」は異なるだろう。何が正解ということはない。自分の考えと違うと思ったら、ぜひ教えてほしい。あなたにとってのスマッシュを。

今回のプロジェクトでは、さまざまな場所で語られているスマッシュに関する言葉に、改めて気づかされることばかりであり、とても助けられたし、勇気をもらった。メーカーの人間にとって、ユーザーの方々の生の声を聞けることはなかなかなく、これまではインタビューするなり、販売店で張り込みをするなりして手掛かりを得るしかなかった。今は、SNSなどでそれを知ることができるのだから、驚くべきことだ。

Twitterで一言、呟いてもらうのも良いし、その他の適切な場で熱く語ってもらうのも大歓迎だ。

その言葉が、何か新たなものを生み出すかもしれない。

 

どう書くかは、自分が決める。

あなたは、スマッシュをどう書くだろうか?