ぺんてるの山田です

AT限定の人間が考える、ノック不要の「オレンズAT」とシャープペンの未来

AT限定の人間が考える、ノック不要の「オレンズAT」とシャープペンの未来

こんにちは、ぺんてるの山田です。

前回、発売35年のロングセラーシャープペン「スマッシュ」について語ったかと思ったら、今度はまだ世に出ていない新生シャープペン「オレンズAT」のお話です。(1/24発売予定)

この原稿が掲載されるのは、オレンズATのリリースが発表されたものの、まだ発売はしていない、というタイミングだと聞いています。

自動芯出し機構を搭載した、オレンズシリーズの新作。ノック不要で書き続けられる、その筆記感は?シリーズ初となる、ぺんてる製図用シャープペンでお馴染みのデュアルグリップの握り心地は?低重心ボディのバランスは?内部の詳しい機構は?◯◯とどっちを買うべき?ボディはどの色が良いか?

そんな、さまざまなトピックに興味をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。

ここは、メーカー社員としての立場を活用して、いちはやくフラゲした新製品の使用感をレビューし、発売に向けての期待感をあおるという常套手段が思い浮かぶところですが、なんだか職権乱用な気がするし、どうせセールスマニュアルの域を出ない、良いことしか言わないステマで終わることが目に見えています。そんなものより、ユーザーのみなさんの率直なレビューのほうが、100倍お役立ちです。

そういうわけで、実際の使用感は発売を楽しみに待っていただくとして、今回は、それまでの間をつないで場を温めるための前座です。

ノック不要で書き続けられる「自動芯出し機構=AT」は、人類の未来をどう変えるのか。などという、壮大な話は書けないので、身近な手元の未来だけですが、ATの方もMTの方もどうぞ。

※ちゃんとした開発秘話を読みたい方は、今後のマガジン「ぺんてるモノ物語」の更新にご期待ください。

01私がAT限定になった理由

大学生のとき、免許を取った。自動車運転免許である。その頃、特に履歴書に書けるような資格を保有していなかった私は、これで来たる就活に際しての空欄の一つを消すことができた、と一安心したものだ。

免許を取得して、というか、自動車教習所に通って私が学んだのは、自分は運転をしてはならない人間だということだ。良く言えば慎重、悪く言えば、判断に迷って右往左往し、石橋を叩いて叩いて叩いているうちに、一歩踏み出す機会を逃して後退するタイプの人間である。それで自分が損をするだけなら良いが、無人の荒野を走っているのでもない限り、通行の妨げとなることは避けられない。

そのような、どっちつかずの態度というのは、人間関係しかり、運転しかり、ときに最悪の事態を招くものだ。

運転とは、次々に新しい情報が飛び込んでくる奔流の中に身を置いて、常に決断を強いられ続けるものであり、判断に迷ってどちらともいえない、などという生ぬるい態度で飛び込んだらどうなることか、想像しただけでもおそろしい。人生と同じである。

結論として、私は何があろうとも決してハンドルは握るまいという固い決意を抱き、免許証は便利な身分証明書として使うのみにとどめて、今に至る。

 

そんな人間であるから、クルマを運転することに対して何らかのこだわりがあるはずもなく、もちろんAT限定である。限定と聞くと、なんだかコレクター心をくすぐられるようではあるが、別に数量限定のレア物でも何でもなく、単に、運転できる車を制限されているだけだ。

※AT限定免許…ギアチェンジの必要なく自動で変速できるオートマチックトランスミッション(automatic transmission=AT)を搭載したAT車に限って運転できる免許。手動で変速操作が必要になるMT車を運転することはできない。

最初こそ、まずはAT限定で免許を取得しておいて、しかる後に限定解除をしようという意欲を持っていたのだが、それも、別にクルマや運転に対する思い入れあってのことではなく、ただなんとなく、限定がつかないほうがかっこいいから、という見栄であった。若気の至りである。

誰もが通る道であるかと思うが、私も昔は、巨大ロボットなどのコックピットに収まってガチャガチャとレバーを操作したり軽やかにパネルの上で指を躍らせたり、押してはいけないボタンのカバーを悲壮な決意でたたき割ったり、目標をセンターに入れてスイッチしたりといった操作に憧れを抱き、発進シークエンスをまねして遊んだりしたものだ。変形する玩具のギミックが確かな手応えでもって、あるべき位置におさまったときの達成感は、今思い出しても高揚をおぼえる。

だが、初めて乗ったロボットなり人造人間なりを操縦して敵と互角に渡り合うなどという展開は、物語の主人公だから許されるのであって、物語でもなければ主人公でもない私は、早々にATのお世話になることを決めた。

 

自分の手によって操作する実感を得たい、という人々にとっては、それを自動化するとは、もったいないことだと思われるかもしれない。だが、クルマに何を求めるかは人それぞれである。

私にとっては、状況に応じた判断と操作は多大な負荷としか感じることができないので、それを省くことで心の余裕を取り戻したいし、技術の進歩によって自動化できる部分については、存分にその恩恵にあずかりたい。常日頃から、いかに楽ができるかを考え、業務に関するささやかな自動化のアクションを組んだり、テンプレートを作ったりしては、小さな喜びをおぼえているタイプだ。

できれば、寝ている間にロボットアームが自動的にベッドから運び出して身支度を整えてくれた上で、自動運転車が職場まで快適に運んでくれないものだろうかとさえ思う。そこまでしてもらえるほど技術が進歩した世の中なら、もはや生身の私の存在は必要ないような気もするが。

02「ノックしない」自動芯出しシャープペンへの複雑な感情

今回発売するオレンズATは、自動芯出し機構によって、シャープペンには不可欠と思われた「芯が減ってきたらノックする」という操作から、人類を解放するシャープペンだ。

あたかもスタートボタンのように、ノックするのは書きはじめの1回のみ。あとは、ペン先が紙面から離れるたびに自動で芯が出ることで、芯が1本なくなるまで、ノックすることなく書き続けられる。

この自動芯出し機構は、芯が折れないよう先端パイプで守りながら書くことを可能にした「オレンズシステム」とともに、2017年発売のシャープペン「オレンズネロ」に、すでに搭載されている。

とはいえ、「ぺんてるのフラッグシップモデル」としてあらゆる技術を結集した、1本3,300円のハイスペックシャープペンの機能であるから、多くの人が気軽に手に取れるようなものではなかった。部品点数の多さ、構造の複雑さから、生産数が限られ、欲しい人の手に届かない品薄状態が続いたこともあった。他と比べて、かなり尖った、人を選ぶシャープペンであると言って差し支えないだろう。

それを、より身近な存在として、2,200円という価格帯で実現したのが、このオレンズATだ。

ATは、Automatic Technologyの略。そのまんまである。などというと、ネーミングを考えた人に怒られそうであるが、実はこれを考えたのは私なので、問題ない。

といっても、前回のスマッシュのキャッチコピーのように、前後編に分けてまで語るような紆余曲折は、残念ながらない。商品の企画段階でネーミング募集があり、なるほど自動芯出し機構か、そういえば自動=オート=ATだな、と連想したので、これはAT限定の人間の使命かもしれないと思い、提案してみたところ、いつの間にか決まっていた。

もしかしたら、動物の赤子の命名と同じく、同案多数で共同命名者のひとりという扱いなのかもしれないが、ともかく、関わりがないわけではない。

もし私がAT限定免許保有者でなければ、この案が出ることはなく、オレンズATは、まったく別の名前になっていたかもしれない。というのは、あまりに自意識過剰というものだろうし、それで何かもっと他の素晴らしい名前になっていた可能性も十分にあるわけだが、そんなわけで、オレンズATには少なからず思い入れがある。

 

と、ここまで語っておいて何だが、私個人はシャープペンに関しては、特にAT=自動芯出し機構を求めてはいない。いつもノックするのが面倒で不便で気が散って仕方なかったんだよね、と思っていたならば、両手を挙げて歓迎していたところだろうが、別にそんな風に感じたことはない。

というのも、再三言っているように、私にとってシャープペンとは、サイドノック式シャープペンだからだ。芯が減ったら、わざわざ持ち替えて後端をノックせずとも、親指をわずかに移動してサイドのノックボタンを押すだけで、芯を出してまた書き続けることができる。極めて便利だ。

それなので、「これでノックしなくて済む!」という歓喜の気持ちは、いまいち、感じられない。サイドノックでいいじゃん、である。オレンズATを語らせる人間としては、人選ミスといってよいだろう。ここは、そういう特殊な性癖の人間が書いている、という点を割り引いて読んでもらえるとありがたい。

ノックはいわば、息継ぎだと、かつて書いた。私にとっては、その繰り返しこそが、「書く」ということに直結している。それはもう、人生で一番シャープペンを使っていた頃に、身体に染み付いたものなので、どうしようもない。

ノックによって、自分がどれだけ書いたかを実感し、調子を取っているようなところがあるので、それが不要といわれると、書くリズムも違ってくることだろう。

それは、リフレッシュであり、刺激であり、抑制を経て高揚をもたらすための儀式なのだ。

このように、オレンズATの販売促進的な思惑でもって記事を書き始めたはずなのに、なぜか、自動芯出し機構ではなく、ノックの効用について述べている。

仕方あるまい、数十年の間、手動でシャープペンをノックし続けてきたのだ。ノックすることに関して語ることはできても、ノックしないことについては、経験が浅すぎて何とも言いようがない。慣れ親しんだものに対して愛着を覚えてしまうのは、逃れがたい人間のさだめである。

ノックという一手間、その行為も含めてシャープペンだと思っている者にとっては、あまりATを礼賛されると、自分の愛したシャープペンが、追いやられるような気になるのだ。

自動芯出し機構は、ノック不要と高らかにうたうが、なぜ、そうやって、急にノックを邪魔者扱いするのか。これまで、あんなに一緒にやってきた仲間じゃないか。後端ノックの押し心地にこだわったシャープペンだってあるというのに(例:スマッシュ)、これは手のひら返しというものではないのか。

一人のサイドノック式シャープペン愛好者として、そんな思いを、少しも抱かないといったら嘘になる。

03誰かの「これでなくてはならない1本」に。ATという、シャープペンの新たな選択肢

自動芯出し機構と聞いて、すごいな、と思うのと同時に、こうやって、どこか距離を置いて、斜に構えて見ようとする自分がいる。この思いは、何なのだろうか。

考えてみると、その中には、ある種の「うらやましさ」があったりすることに気づく。

私が中学生だった頃、自動芯出し機構のシャープペンなど、見たことがなかった。あるところにはあったのかもしれないが、そもそも存在を知らなかったので、探し求めることもなかった。

目新しいシャープペンといえば、サイドノック式や、振って芯を出すタイプが流行していた時代である。書き続けるには、何らかの方法で、手動で芯を出す必要があるのが当たり前だった。

だから、これは、昔はダイヤルを回して電話をかけたものだし、ビデオテープは巻き戻す必要があったものだよ、と言っているようなもので、ただの感傷的な懐古趣味なのかもしれない。

あるいは、自分の頃はしなくてはいけなかったのに、今はしなくていいなんて、なんだか腑に落ちない、という感情。そりゃあ、しなくていいならそのほうがいいだろう、と頭でわかってはいても、素直に認めることには抵抗があるという、葛藤を抱えた状態だ。

うらやましさと、自分のしてきたことは何だったんだという気持ちがないまぜとなって、過去を必要以上に美化し、価値を持ち上げ、あわよくば、次の世代へ引き継ごうとする。そういう私情が、進歩や発展、変化の足枷となっている例は、身近でも思い浮かぶものがあるのではないだろうか。いつのまにか、自分がそんな大人になってはいないか、省みることを忘れずにいたいものだ。

 

省みた結果、正直な気持ちを言うと、今の学生はATを使えるということが、うらやましい。

もちろん、今はなきサイドノック式のドットイー・ティントが普通に店頭販売されていた時代に、自分が学生をやっていて、それに出会うことができたのは、何よりの幸運だったと思っている。そこに後悔はない。その上でだ。

ATという選択。シャープペンを使おうとするとき、それが選択可能であることに、意味があると感じる。かつての私にとって、サイドノック式シャープペンという選択肢があったことと、同じように。

ATは、ひとつの選択肢であって、すべての人がATを使うべきである、などと言うつもりはない。

ギアを自ら操作するのと同じく、自分の手でノックしてこそシャープペンだ、とする向きもあるだろう。実際、前回スマッシュについて書いたときは、そんなようなことを述べた。最近のシャープペンは至れり尽くせりでとても親切だ、とかなんとか。

いったいお前はどっち側の人間なんだ、と言われてしまいそうだが、どちらにも良さがあるのだから仕方がない。

たしかに、この手で操作している感覚を味わう、という意味においては、筆記を補助するなんとか機構や、なんとかシステムといった要素は、余計かもしれない。だが、シャープペンの魅力には、「手の中のメカメカしさ」とでもいうべきものもあることを、忘れることはできない。

何にも頼らず、究極的に自分の手で思いのままに操作したいというのなら、シンプルに鉛筆を使えばいいのに、精密な機構が搭載されたシャープペンを使うのは、「メカを操作する」実感を得たいからだという側面がある。そのメカが目新しいものだったりすると、さらに興味を惹かれる。

シャープペンの場合、まだAIは搭載されていないので、いろいろと便利な機能が付くことによって、さらにメカメカしさが増して、それはそれで好ましかったりする。

ペン先が芯を○○する、とか。

○○○なしで書き続けられる、とか。

新しいギミックの登場には、いつだって心躍るものだ。

自分にとっての、「これでなくてはならない1本」が何であるかは、人によって異なる。最初からわかっているわけでもなく、出会って初めてそれとわかることもあるし、もしかしたら、まだこの世に存在していない1本がそうなのかもしれない。

それを実現しようとするのが、我々メーカーの仕事だ。

思えば、私が好むサイドノック式シャープペンが誕生したのも、いちいち持ち替えて後端をノックするのが面倒だからなんとかしたい、という潜在的な欲求があってのことだろう。サイドノック式は、それを、ノック位置の変更によって解決した。一方で、自動芯出し機構は、ノックすること自体を不要とした。アプローチが異なるだけで、目的とするところは同じなのだ。

サイドノック式の一番の利点である、素早くノックできること=ノックによる時間と労力の消費を防ぐこと、と考えると、自動芯出し機構は、何よりその目的に叶っている。持ち替えるどころか、親指を少しずらすことすら、しなくて良いのだ。ノックすることなく、芯が1本なくなるまで、書き続けられる。

そう思うと、一見まったく異なる系統と思われた、オレンズATは、サイドノック式シャープペンと目指すところは同じであり、共に歩む仲間と感じられる。廃番になったサイドノック式シャープペンにいまだにこだわり続ける私が、令和の世に推すべき現行品は、オレンズATなのかもしれないとさえ思う。

シャープペンの新たな選択肢である、オレンズATは、これまでにない1本だ。それゆえに、きっと誰かの、「これでなくてはならない1本」になる。そんな力を備え持っていることを感じさせるシャープペンだ。

04シャープペンとは何か。オレンズATを通して、未来を見る

この原稿をここまで読まれている方々は、基本的にシャープペンへの関心度の高い方々と思われるが、世の中にはさまざまな人々がいる。

人によっては、シャープペンをノックすることなんて、無意識にだってできるし、そんなに手間や時間がかかるわけでもない、ほんの些細なことじゃないかと思うかもしれない。それを自動化したところで、どんな意味があるのかと、一笑に付すかもしれない。

だが、突き詰めれば、あらゆるものは、そんな小さな革新の積み重ねによって、進化してきたのではないだろうか。

オレンズATを使ってみた社員によると、自動芯出しに慣れたら、もう普通にノックするシャープペンには戻れないらしい。すなわち、その人にとっては、「書く」にあたって、ノックは必要不可欠な行為ではなかったということだ。

ノックが必須のシャープペンを使っている限り、それに気づくことはない。ATを体験して、一度ノックというものから解放されたことで、はじめてわかることだ。

それが当たり前だとして慣れているものがなくなるのには抵抗があるし、これまであったものであれば、これからも必要なもののような気がする。だが、手放してみると、意外とあっさりとしたものであったりするものだ。

やっぱり必要だった、とわかれば元に戻せば良いし、そうすることで、以前よりも大切に感じられるようになったりもする。

いずれにしても、試してみないことには、それが自分に本当に必要なものかどうかは、わからない。これは、強いられてやっていることなのか、それとも、自ら選択していることなのか。身の回りのことを、ふと、改めて考えてみたくなる。

 

後端をノックする、という行為を当たり前のものとみなさず、疑問を抱き、解決しようとしたからこそ、サイドノック式シャープペンも、振って芯を出すタイプも、自動芯出し機構も生まれた。

さらにさかのぼれば、現在のようなシャープペン=ノック式という図式が定着したのは、ここ半世紀ほどのことだ。

かつて、シャープペンの芯は今よりずっともろく、太く、鉛筆のように削って尖らせる必要があるもので、それを保持するシャープペンは、繰り出し式が一般的であった。それが、丈夫で折れにくい、合成樹脂を配合したハイポリマー芯の登場によって、0.9、0.7、0.5という極細芯が実現し、現在のようなノック式がスタンダードとなる端緒を開いた。

ちなみに、これは宣伝なのだが、そのハイポリマー芯を世界に先駆けて1960年に発売したのはぺんてるであり、同年、その芯を活かすためのノック式シャープペンも発売している。

そんな、ノック式シャープペンの歴史とともにあったぺんてるが、ノックを必要としないシャープペンを打ち出す、という展開は、あたかも過去の己を超えていく姿を見るようで、熱いものがあると感じるのは、私だけだろうか。

いつの時代も、現状に満足することなく、よりよいものを、より広く使ってもらうことを目指す。その信念は、これまでも、そしてこれからも、変わることがない。

さかのぼりついでに言うと、ご存じのように「シャープペン」は和製英語であり、英語圏ではmechanical pencil、もしくは、automatic pencilである。すでにオートなのだ。だが、自動芯出し機構が登場した今、厳密に言うと、過去のそれは実は完全なオートではなかった、ということが明らかになる。

同様に、これまでは特に何も言わなくても、シャープペンといえば、芯が減ってきたら手でノックするのが当たり前であったのが、ATの登場により、芯出しが手動なのか自動なのかを明確に表す必要が出てくるかもしれない。携帯電話が登場し、一般化する中で、かつての電話は「固定電話」と呼ばれ、区別されるようになったのと、同じように。手動芯出し=「マニュアルシャープペン」ということになるだろうか。

シャープペンにライセンスは不要なので、オートマでもマニュアルでも、自由に選べるのが嬉しいところだ。存分に、自分にとっての至高の1本を、探し求めることができる。

今回の記事タイトルにもなっているように、ATといえば、今のところはAT車やAT限定免許が思い浮かぶことだろう。それも、いずれ、当たり前のようにシャープペンの自動芯出し機構を指すようになるのではないか、というところまで思いを馳せるのは、さすがに飛躍が過ぎるだろうか。

私はAT限定だが、オレンズATは、限定ではない。むしろ、自由をもたらすATだ。芯が折れることもなく、ノックをする必要もなく、ユーザーはただ、何にもとらわれずに、書くという行為にのみ、向き合うことができる。

シャープペンに、何をしてもらうか。それは、単に自分のやることが減る、というだけのことではない。その分、自分が何をするか、明らかにするということでもある。

自動化できる部分はそれに任せて、棲み分けることで、人は、自分にしかできないこと──何をどう書くかといった思考のみに、力を注ぐことができる。

書き続けるうちに、シャープペンの存在は意識から消え、ただ自分自身と、残した筆跡のみが、そこにある。存在感がありながら、その性能を最大限に発揮するとき、その存在は消える。オレンズATは、そんなシャープペンだ。

 

シャープペンはノックするもの、という固定観念。

しかし、それを取り払っても、シャープペンはシャープペンだ。それが概念の中核ではなかったことを、自動芯出し機構は明らかにした。

何をもってしてシャープペンというのか、私たちの思い描く、その姿は、実はいくらでも自由に変わっていく可能性があるものなのかもしれない。

 

シャープペンのスタンダードが、今後どう移り変わっていくのか。オレンズATを走らせるとき、少しだけ、そんな未来を垣間見ている気分になれる。