ぺんてるの山田です

日記に挫折し続けて。たどりついた唯一の方法と「役に立つか、わからないから面白い」ということ

日記に挫折し続けて。たどりついた唯一の方法と「役に立つか、わからないから面白い」ということ

こんにちは、ぺんてるの山田です。

みなさん、手書きしてますか?

私は先日、久しぶりに社訓を書いてみようとしたところ、「繁栄」「培養」の漢字を思い出せず、やや危機感をおぼえました。やはり、日々こつこつと手書きしていないと、いざというときに書けないものですね。筆記試験の前には、知識を詰め込むだけでなく、紙に手書きすることの練習も必要かもしれません。

学生時代のように、毎日ノートを取るようなことはなくなったとしても、たとえば、日記を書く習慣でもあれば、そんな必要もないのでしょうが。

そんなわけで、今回は、日記についてのお話です。

01文具メーカー社員は毎日、日記を書いている?

毎日、日記をつけている。

というと、「やっぱり文具メーカー社員なんだな」と思われるかもしれない。手書きの機会が少なくなった昨今でも、一日の終わりにペンを取り、紙に触れる時間を欠かさず確保するというのは、なるほど文具に関わる者として、あるべき姿といえよう。

時刻は22時を回った頃、机上に作ったスペースに日記帳を広げ、今日の日付までページを繰る。聞こえるのは、紙の擦れ合う微かな音のみの、静謐なひととき。引き出しに収められた筆記具コレクションを眺めてから、最近気に入っている1本を選び出す。
手に心地よい重みを覚えつつ、新しいページにペン先を走らせ、さりさりと紙面に擦れ合う軽い抵抗を感じながら、インキの道筋を残していく。みずみずしく艶やかなそれが、時とともに沈み込み、やがて定着するのを待つ、贅沢な時間。今日も有意義な一日だった。
書棚に目をやれば、角が擦り切れページの膨らんだ、年季の入った日記帳が何冊も保管されていて、だいたい同じブランドだが、少し浮気をしていた時期もありつつ、過ぎた年月を閉じ込めている。ぱらぱらとめくってみれば、筆跡からそのとき気に入っていたペンの姿が思い浮かぶ。
また、文字だけでなくスケッチが入っていたり、チケットが貼り付けられていたり、スタンプが押されていたりと、旅行やイベントごとの記録の意味合いもあって、見るたびに情景が呼び起こされるものだ。

 

などという、そんなイメージを裏切ってしまうとしたら申し訳ないことだが、冒頭2行目以降は、すべて妄想である。こんなだったらいいなというふんわりとした願望であって、実際には、そんな優雅な暮らしはしていない。

事実といえば、日記をつけている、ということだけだ。それでも、形はどうあれ毎日、何らかの文字を紙に筆記しているというだけで、やはり文具業界の人間らしい趣味だと思われるだろうか。

だが、使用しているのが紙の日記帳ではなく、表計算ソフトであるといったら、どうだろうか。

日記の形式にもさまざまなパターンがあるが、私の場合は、連用日記の方式でやっている。いわゆる5年日記や10年日記といった、同じ日付の日記を数年分、一覧できるスタイルである。その表計算ソフト版と思ってもらえればよい。

1セルを一日として、縦に1月1日から12月31日まで、1年分の日付をとった366行の列が、年数分並んでいる。これが私の日記帳だ。過去5年間の記録が1シートにまとまっている。
本来の用途とはかけ離れた使い方に、表計算ソフトも泣いているだろうし、有識者の方々からは叱られてしまうかもしれないが、どうか大目に見てほしい。この形式でなければ、私はまともに日記をつけることができないのだ。紙の日記に挫折し続けてきた経験から、それは確かなことだ。手帳やノートに日記をつけようとしたことは、何度もあって、その度に、1ヶ月と続かずに途切れていた。

たぶん、前回も書いたように、自分の字のあまりの下手さに、嫌気がさしたのだろう。書いていて楽しくないし、読み返す気も起こらない。次第に面倒になっていく。その点、PCであれば毎日、開く習慣がついているので、遊びのついでに書き残すことができる。デジタルツール万歳である。

一日の終わりにファイルを開くと、自動で今日入力すべき空白セルへ飛ぶように設定してあるので、できごとや思いつきを綴る。それが私の夜のルーティンだ。

表計算ソフトを使った連用日記(イメージ)

この方法の利点は、まず、検索性に優れていることである。あの出来事があったのはいつで、具体的にどうしたのだったか、と思ったときに、検索機能で一瞬のうちに調べることができる。

また、スペースの制約なく書き連ねることができるのも利点だ。本や映画の感想もここに集約しているため、筆が乗った日はかなり長くなるし、無為に過ごした休日は「何もなし」に終わる。テキストデータならば、そのいずれにも対応可能だ。

そして、これは紙の連用日記の場合と同じく、一覧性。日記を開くたびに、去年や一昨年の同じ日付の日記が隣に並んでいるのが目に入る。よく、紙の新聞や辞書の利点として、自分が求める情報だけでなく、その周辺の情報も一緒に入ってくるので自然と知見が広がる、というのと似ている。

日記をつけるついでに、過去の記録を眺めて、そういえばそろそろあれを買わなくてはいけないな、とか、いや、もう少し先のほうが得だな、とか、あの準備をする時期だな、といった指標にすることができる。具体的には、例年、確定申告でつまずく部分については、どう対処したかが去年の日記に記されているので、ヒントとして大いに参考にしている。毎年わからなくなり、今度こそ覚えようと思うのだが、1年経つと忘れているのだ。また、摂った食事のメニューも記録されているので、何を食すべきか迷ったときなどには、過去の自分が良きアドバイザーとなってくれるのも、地味に助かる。

この日記は、書き続ければ続けるほど、重要な存在になっていく。1年目は普通の日記と同じだが、2年目以降は、見比べるという行動が生まれるからだ。データが蓄積されるのに伴って、信頼性が高まっていく。それがわかっているので、書くときにも、来年の自分へのリマインドを仕込んでおいたりする。

いわば外部記憶装置なので、これが消失したら、かなり困る。失われたら二度と取り戻せない情報、その価値は計り知れない。とはいっても、私だけにしか通用しない、極めて限定的な価値なのだが。

逆にいえば、そこに集積しているのは、人に尋ねても、検索窓に尋ねても出てこない情報であり、自分仕様に最適化されている。もはや、もう一人の自分である。

すべてを脳内だけに記憶していられればよいが、そうはいかない。良くも悪くも、人は忘れやすい生き物だ。なればこそ人類は、さまざまな方法で記録を残すようになったのではないだろうか。

02書かされる日記と、書いたのを後悔した日

些細なことを延々と長文に仕立てる文章ばかり書いている現在からは、考えられないことであるが、小学生の頃は、日記の宿題が大の苦手だった。最低でも週に2日分は書いて提出することになっていたが、何も書くことが思いつかず、真っ白な日記帳を前にして悩み苦しんでいた。

日記とは、何か特別な出来事を記録しておくためのものであり、平穏な日常では何も書くことがない、というのが、その理由だった。どこかに連れて行け、何かネタを提供しろといって、親を困らせたものだ。

これは宿題としての日記であり、他者に読まれることを前提としているから、必ず「とても楽しかったです」で終わる、道徳的な内容であるべきだという固定観念もあった。しかし、小学生の日常は、道徳的なばかりではない。むしろ、それに背くことのほうに、熱中したりするものだ。正直にそんなことを書いたら、叱られるであろうことはわかりきっている。

ゆえに、できるだけ無難なテーマで、事実の描写を中心に文字数を稼ぎ、最後はいつも決まって「楽しかった」「面白かった」で締めくくっていた。最低限、ページの半分が埋まるようにと、できるだけ文字を大きく、引き伸ばして書くというテクニックも駆使していた。

宿題としての日記には、書くことで、読み手に伝わるよう表現を工夫するようになり、文章力が上昇する、という効果があるといわれる。確かに、そのような成長の機会となるケースもあることだろう。しかし、私の場合、そもそも日記を人に読まれたいとは思っていなかったので、伝わる工夫をしようという発想もなかった。

その頃の私は、規則に忠実でたいへん真面目な児童であったので、宿題といえば、疑問を抱く余地なく、何があっても提出すべきものであった。それなので、週に2日分を書いて提出するというルールだけは遵守していたはずなのだが、何を書いていたのだか、さっぱり思い出せない。

覚えているのは、ネタがないといって悩み苦しんだことと、過去の日付で書く日記の天気欄を埋めるために、新聞を漁ったことくらいだ。今ほどインターネットが普及していなかった当時、過去の天気を調べる方法はそれくらいのものだった。実際の天気と齟齬があってはならないと、私は古新聞の山から該当する日の朝刊を引っ張り出し、天気予報コーナーを確かめるのだった。
そんなもの、適当に書いておけばいいだろうと今ならば思うし、当時も呆れ顔の親からそう言われたような気がするが、幼い私は頑なだった。思い返すと、なんと涙ぐましい努力であろうか。努力の方向性が間違っているような気がしてならない。

よくわからないが、書かないといけないものだから、仕方なく書く。そんな日記に愛着を持てるはずもなく、書いた後は読み返すこともなかった。

そんな中、ひとつだけ、何を書いたか覚えている日記がある。

ある史跡を見学し、教訓的な話を聞いたときのことを書いた日記だ。まとめとして「自分もそんな人になりたいと思った」と、珍しく「とても楽しかったです」以外の言葉を書いたら、その箇所に波線が引かれ、二重丸がついて返ってきたことを、20年以上経った今も、鮮明に覚えている。赤ペンで、「きっとなれますよ!」的なコメントも添えられていた。

それを目にしたときの感情は、後悔、というのがもっとも近いだろう。

実際のところ、私はその訓話の登場人物のようになりたいとは、少しも思っていなかった。その話は、ここではそういう話が伝わっているという知識として入ってきただけで、特にそれを自分の身に置き換えて何か感じるということもなく、心を動かされることはなかった。ただ、こう書くのが正解なんだろうな、と思って、期待される答えを書いた。

結果、それは正解だったわけだが、これは同時に、私の正直な感想(「ふーん」あるいは「へー」)は、不正解だったということを意味する。大きな二重丸がつけられていても、心は少しも弾まなかった。

宿題なので仕方なく書いただけであり、あわよくば教師からの心証を良くしておこうという意図から書いたものが、その通りの効果を発揮したのだから、本来、喜ぶべきところだ。こう書けば良いんだな、と割り切って型を覚え、その後に生かすというのが、学びといえよう。

しかし、気分は晴れなかった。何かに屈したような、枠に収められたような、そんな感覚がした。もちろん、すべては、軽い気持ちで心にもないことを書いた自分の責任だ。自業自得以外の何物でもない。
ただ、自分の心を偽ると、こんなにもやるせない気分になるのだと、思い知らされた出来事だった。鮮明に記された赤丸が、それでいいのかと、こちらに訴えているように感じた。

 

そういう偽りを書けるようになることが、成長なのだと言われれば、そうなのかもしれない。ときには、自分の考えはさておいて、周囲に求められる望ましい答えを提示することが、この世界では求められる。
いつも正直でありさえすればいいというものではない。人と関わり、社会の一員として生きる中で、私たちはいちいち考えることもなく、その場その場に適した模範解答を用いているし、それが本心であるかどうかを、改めて問い質されることもない。

円滑な社会生活を営むうえで、導き出された最適解。そうして、世界は今日も回っている。

今の私なら、その心境をネタにして次の日記を書くこともできようが、そのときの私は、抱え込んだものをどうしたら良いのか、わからなかった。鉛筆の筆跡を消したところで、一度それを書き記したという事実を訂正することはできない。ただただ、書くんじゃなかった、と思った。
今も思い出すと、苦い心地になる。純粋な善意から丸をつけて、コメントまで書き添えてくれた当時の教師には、こんな生徒で申し訳ないという思いでいっぱいである。

結局、卒業して宿題から解放されるまでの間、日記への苦手意識が消えることはなかった。

実家には、あの頃の日記がまだ残っているだろうか。あったとしても、きっと、読み返すことはないだろう。ただ課題を消化するために書いていただけで、中身などない、誰が書いても同じようなもの。

本当は、私はあのとき、どう思っていたのか。何を感じていたのか。今となっては、わからない。

書かなかったことは、残らない。後から読み返せるのは、書き残したことだけだ。

03一年後の君へ。自分のために書くということ

日記にしろ、作文にしろ、読書感想文にしろ、宿題であったときには、書くのが嫌で嫌で仕方なかった。それが、今は頼まれもしないのに、こうしてせっせと書いている。不思議なこともあるものだ。

子どもの頃、何年も日記を書いていながら、私は、何のために日記を書くのか、わからずにいた。書けと言われるから書くというだけで、書いたそばから、済んだこととして忘れ、過去に追いやった。

今はわかる。日記に書くのは過去のことだが、過去のために書くのではない。それを読むのは、未来の自分だ。だから、未来のために、自分に宛てて書くのだと。

1年後、あるいはもっと先に、それが自分に何かをもたらすことを知っている。直接、役には立たなくても、ヒントになったり、変化を自覚したり、振り返ったりするきっかけを与えることができる。

長々と思い悩んでいたときの日記を読むと、書くことで考えを整理していく過程がわかるし、それを経て今の自分がいることを実感できる。そのときは、これしかないと思っていたことでも、今は違った見方ができるようになった自分に気がつく。また、そのときだけの感性に、新鮮な刺激を受けることもある。

過去の自分は今の自分に連なるものだから、すべて今の自分に内包されているし、何もかも覚えているつもりでいて、実はそんなことはなく、まるで違った存在として読めるし、発見がある。過去の自分から教えられることがあるとは、日記をつけなければ、意識することもなかったかもしれない。

同じであって、まったく同じに重なることはない、奇妙な存在。その差分こそ、自分が立ち止まらずに、何らかの変化ができていることの証でもある。今、このときの自分だけしか意識できなければ、その変化も自覚できない。

今の自分は、過去にも未来にも、この自分が不変だと思っているが、それが実は、あいまいなものであることに気付かされる。だからこそ、書き留めておかなくてはと思う。

消えていく、過去の自分の痕跡を、せめてどこかに残したい。
人のためではなく、純粋に、自分のためだけに。

去年の自分が書き残したものに、今の自分が触れているように、今の自分も、いずれ過去になり、いつかの自分に何らかの示唆を与える存在になれるのだろうか。いつの日か、これを読むであろう自分に、何かを伝えられることを願って書く。

 

そうは言っても、ときには想定外の寝落ちなどにより、書きそびれてしまう日もある。翌日、思い出しながら2日分を書くのだが、そういうときは明らかに分量が少なくなる。それが3日、4日分となると、何をしていたのだったか、驚くほどに思い出せない。普段、それだけ無駄なものを書いているともいえるし、書かなければ失われてしまうものがそれだけある、ともいえる。

もちろん、そうやって削ぎ落とされ、残ったものこそ本当に大事なものであって、それさえ覚えておけばいい、という考え方もある。なんでも記録することで、なにも見えなくなってしまうこともあるだろう。一言一句を書き留めるのではなく、要点だけをメモせよ、とはよくいわれることだ。蛍光ペンは重要な箇所だけに引くから意味があるのであって、すべてに引いてしまったら、どこが大切なのか区別がつかない。

焦点を絞ることで、本質が際立つ。無駄に長い文章にしてしまう私には、耳が痛いことだ。それでも、一言ではなく、ぐだぐだと書くのが私のやり方だ。端的に言い表す力がないので、あれこれと心の動きをすべて書き留めることで、できるだけ、後から読んだ際の再現性を担保しようとしている。一言ではぴんとこなくても、複数の表現でもって描写すれば、そのうちのどれかは引っかかるだろうという魂胆である。

毎日せっせと日記をつけても、それが何になるのかは、誰にもわからない。無駄なものばかり書いていると思われるかもしれない。

しかし、無駄であったかどうかは、後からわかることだ。私は「いつか使えるかもしれない」といって、物を保存しがちなタイプなのであるが、記録に対しても同じスタンスを取っている。

書き留めなければ、それはどこにも存在しなかったことになる。そのときは確かだと思えたことでも、時とともに薄れ、崩れ、なかったことになる。

だから私は、今日も日記を書く。なにげない、つまらないことかもしれない、日常の記録と心の動きを、ぐだぐだと。

04日記におすすめの商品(PR)

さて、ここは私の個人的な日記帳ではなく、実はぺんてるコーポレートサイトであるからして、商品に一切触れずに終わるというのは、社員としての姿勢を疑われてしまいかねない。少しは仕事をしろという声が飛んでくる前に、日記におすすめの商品を趣味と独断でいくつか挙げさせていただこう。

ヴィスタージュ 水彩スティック

そのものライフログノートに使うことを提案している水彩色鉛筆。水にとろける全芯色鉛筆で、そのまま描くだけでなく、上からみず筆でなぞると水彩のタッチを楽しめる。
水彩色鉛筆というと、絵を描くための画材というイメージがあるかもしれないが、カラーペンだと思って気軽に手帳やノートに使ってほしい。イラストを描いたり、ハビットトラッカーを塗ったり、枠を縁取ったりして、日々の記録を彩ることができる。
キャッチコピーは「22時からはじまる、わたしだけの彩る時間」。忙しい日々の中でも、そんなひとときを過ごしてほしいという思いが込められている。

ヴィスタージュ 水彩スティック

紹介しておいて何であるが、そこまでは、ちょっとハードルが高い、と思う方もいることだろう。私もその一人である。

彩りはあるに越したことはないが、なくても別に気にしない。まずは文字書きを中心にしたい、という場合におすすめなのはこちら。

プラマンJM20

プラマン/トラディオ プラマン

SNSや便利なアプリにあふれた今の時代、あえて手書きの記録をつけるというのは、それなりのこだわりあってのことと思われる。あえて紙に書くのであれば、その時間を愉しむ相棒になってくれるペンが必要だ。
プラマンは、プラスチックのペン先で万年筆の書き味を再現した、「万年筆であって万年筆ではない」水性ペン。力の込め具合で、線の強弱を表現できる。ペン先の角度や向きによって、書き味が変わるのも面白い。
使えば使うほど、ペン先が馴染んでいくので、次第に新品とは異なる自分だけの1本になっていくのも、育てる楽しみがあるといえよう。

プラマン
トラディオ プラマン

エナージェル

なめらかな書き心地はもとより、速乾インキなので擦って汚すことがなく、書いてすぐにページを閉じられるのが嬉しいゲルインキボールペン。
乾くのを待つ時間も情緒だと思えるときにはそうしていただいて結構だが、なかなかそうはいかないときもある。私も新入社員研修で日誌をつけるのに活用していた。
気軽に使えるボールペンながら、線に抑揚がつけられるので、文字に表情が生まれるのが魅力だ。内容だけでなく、筆跡から何かを読み取るという行為は、手書きならではのものだ。あえて紙に書くならば、そこに含まれる情報量は豊かであるほうが、後から読み返す楽しみがある。
エナージェル インフリーを何本か揃え、気分に応じて色を変えてみるのも面白いだろう。

エナージェル
エナージェル インフリー

タフ

はっきりくっきり書けるのがボールペンの良さであるが、紙質によっては裏抜けが気になることもある。その場合は、シャープペンが選択肢になるだろう。
後から読み返すことを思うと、濃くなめらかに書けたほうが良い気がするので、芯径0.7以上のタフを2B芯で使ってみてはどうだろうか。細かく精密に書きたい人には、芯径0.2から揃うオレンズを使ってもらうとして、ゆったりとおおらかに、柔らかく書きたいという人には、太芯シャープペンがおすすめだ。
タフの後端に内蔵された大型消しゴムは、よくあるおまけのような小さなものではなく、単体で消しゴムとして成立しそうなほど実用に優れているので、1本あれば、書き間違えを恐れることもない。私はもともと、ペンのような細長い形をしたホルダータイプの消しゴムでのピンポイント修正を好む人間であることもあって、一般的なブロックタイプの消しゴムより消しやすいとさえ思っている。

タフ

05役に立つか、わからないからこそ面白い

商品PRも挟み込んだことであるし、こんなところで、義務は果たせただろうか。あれこれ並べ立ててはみたが、正直なところ、ツールは何であっても良いと思う。紙に書くのがしっくりくることもあれば、デジタルデータによってスムーズになることもある。自分に合う方法を見つけてほしい。

かくいう私は、何を思って、表計算ソフトを使って日記をつけようとしたのか。最初期の日記を読んでみたが、残念ながら、その経緯や心境は、特に書かれていなかった。知りたいと思ったことに限って記録がない、そういうこともある。
なんでもないと思ったことが後に意味を持ち、重要だと思ったことが無価値になる。情報の優先度が、時間経過とともに変わることの一例だ。

1月1日に始めているので、新年にありがちな期待感とモチベーションの高まりでもって、今年は日記でもつけてみるか、と思い立ったのだろうことは想像がつく。高級なノートや筆記具を用意するのではなく、手近な方法でなんとなく始めてみたら、性に合っていて、たまたま続いて現在に至る、というわけだ。

そういえば、祖母は、10年日記を書いていた。表計算ソフトではなく、紙の日記帳である。一日につき、3行程度のスペースに、何かを書き込んでいたのを覚えている。私が連用日記のスタイルを取っているのは、どこかで、それに憧れる気持ちがあったのかもしれない。何をやっても続かない私が、日記だけは続けられているのは、我ながら驚きである。

私にとっては、表計算ソフトであったが、同じように、記録しやすく、見返しやすい、自分に合った方法が、人それぞれにあることだろう。もちろん、己の脳だけで事足りるというのであれば、それで良い。誰もが日記を書くべきだ、などと言うつもりはない。

だが、過去の自分が書き残したものによって、思いがけずに何かを得るという体験を、一度でも知ってしまうと、やめられないという面があるのも事実だ。今日の自分の行動や思考が、この先の自分にとって、何らかの意味を持つかもしれない、という意識が芽生える。
などというと、意識高い系の人間のようで、これでキャリアアップしましたとか、夢を実現させましたとか、投資で大儲けしましたとか言い出しそうだが、そんな大層なことではない。何らかの役に立つ、わかりやすい結果が出ること、それがすべてではないし、得られるものは、もっとささやかな、ほんの小さな気づき程度であっていい。

言ってしまえば単純に、面白いからやるのだ。

本当に役に立つこと、たとえば、確定申告のポイントなどは、何も日記の中に紛れ込ませておく必要はなく、別途、重要事項メモに記録しておけば良い。私はあちこちに書くと管理ができないという理由で日記に集約しているだけで、役立つことだけ書くのなら、他にいくらでも効率的な方法がある。

あえて日記という形式にするのは、ある種の偶然性を期待するからだ。

なにげなく書いたことが、後から別の文脈で、意味を持って現れてくるという、思いがけない邂逅の瞬間。過去の記録の中から、ふと、そういうものが浮かび上がって目に入ると、妙に嬉しかったりする。自分専用の、ある意味ぜいたくで、限りなく低コストの娯楽だ。

いずれ何かの役に立つのか、立たないのか、その時点ではわからないからこそ、面白い。

今このときが、今後の自分にとって、どんな意味を持つのか。それは、ときとして、想像を超えたものになるかもしれない。無数の行動や選択によって成り立つ一日一日がそうであるし、その記録である日記も、また然りだ。

未来の自分に、宝探しを提供する気持ちで、書いてみるのも一興ではないだろうか。